炭鉱見学の巻

1999年1月 、釧路の太平洋炭鉱の見学の機会を得た。日本の石炭消費量1億3,000万トンのうち国内炭400万トンの半分200万トンを産する日本に残る炭鉱2社のうちの1社である。生産単価が炉前でトン当たり1万5,000円で外国炭5,000円の約3倍もあるが、保護政策のもとに横浜磯子の電源開発の石炭火力などで未だに使われている。特別立法もあと2年とせまり、電力料金の国際レベルへの復帰の要請もあり、日本最後の炭田も存亡の瀬戸際にある。

大正9年(1920年)の操業であるが、現在従業員1,300名まで合理化し、一人当たりの生産性は月173トンである。かくも合理化しても高コストである主要な理由は、炭層が全て太平洋の海底下にあるため傾堀しかできない、炭層が2メートル前後薄い、石炭の歩留まりは50%である、断層があって構造が複雑などである。切羽に自動機械を導入し、4名で掘削できても掘った石炭を地上に出すのに60キロのベルトコンベヤーが必要となる。すでに山の手線内の面積は掘り尽くし、搬送距離は増加する。

600メートルの深さの切羽につくまで5-6度に傾斜した地層に沿って建設されたトンネル内をケーブルカーで下り、バッテリー駆動車に乗り換えて水平移動し、更にベルトコンベヤーに乗り継ぎ、最後に徒歩と合計40分もかかる。

切羽の切削、搬送機械はドイツ、オーストラリアなどから輸入したものであるが、非常に良く出来ている。日本のメーカーはすでになく、米国の鉱山機械メーカーアリスチャルマー社も倒産してしまった。GEも大型機械から撤退している。マーケットは非情でグローバル規模での寡占化の傾向にある。

切羽の現場写真はわかりにくいのでホテルロビー展示 (Hotel Serial No.124) の模型写真で説明する。

coal.jpg (33911 バイト)

模型写真

右の白い物は自走移動枠である。切羽の天井を支え、切削機械走行レールと搬出コンベヤー群を前に押し出し、自分も前に這いずることができる。黄色の縦の円筒型の物が天井を支える油圧シリンダーである。黄色の水平円筒が前に押し出し自分も引き寄せる油圧シリンダーである。

赤い物体は横幅250メートルを往復して炭層を切削する切削機械である。回転する2個の黒のドラムには切削用のビットがついている。上下動が出来、炭層の厚さに対応できる。

下の青色の部分は切削機械が走行するレールで長さ250メートルある。中心の黒い部分が鉄製のベルトコンベアー、左側には切削機械の駆動用のアブト式のラックギヤがついている。右のケーブルトレイには切削機械が引きずる3,000ボルトの電力供給用アーマード・ケーブルが収まる。

切削中の炭塵発生防止のため海水散水したがら切削するのであたりは海水につかっている。切削機械が近づくだけで炭層が数メートルにわたって崩落し、迫力がある。事前ボーリングによるメタンガス抜き用の道を作り、吸引を行い、坑道に出さず別途地上に送り有効利用するとともに、強制通風も行って坑道内メタン濃度を引火濃度以下に保持し、安全を確保している。

自走移動枠が前に移動した後の空間は上部岩帯に亀裂が入り、膨張して天井が下降し、自然に埋まる。ガスの放散を防止するため、最後は選鉱ズリを水を使って流し込み封入する。

陸上にベルトコンベヤーで運ばれた石炭はマグネタイトで比重を1.4と1.7に調整した水で比重選鉱され、ズリ(九州ではボタ)と石炭に分けられる。

ベルトコンベヤーのベルトの寿命は24時間操業で3年以上、坑道の主換気扇は古い方が昭和16年製でいまだに健在。新設物でも10年間はベアリングを換えたこともない。年1回4時間だけ停止し、清掃と点検を行うのみ。予期せぬ停止は数年前の釧路地震で送電線が倒壊した時だけである。

釧路市の3大産業は炭鉱、パルプ、漁業とのこと。折りから寒波がきており、日中でもマイナス6度、寒風のため体感温度は低く、防寒服でも5分が限度である。建設作業など一切の屋外作業は休業となる。

 

その後:太平洋炭鉱は1920年の創業。池島炭鉱とともに日本に残った炭鉱であるが、池島炭鉱は2001年11月、太平洋炭鉱は2002年3月閉山ときまった。

2006年には原油価格が70ドルに上昇した。また石炭の時代が来るのだが、その時は日本の炭鉱の技術は消えているわけである。

1999年1月9日

2007/3/5改訂


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