会津磐梯山・檜原湖・会津若松

周遊ドライブ

1996年8月、ハーレーダビッドソンでの旅として企画したが、雨模様のためカー・アンド・レールに変更。福島駅でレンタカーを借り、高湯温泉 (Hotel Serial No.104) 一泊。磐梯吾妻スカイライン、秋元湖、桧原湖経由で剣ヶ峰のフレーザーホテル (Hotel Serial No.103)で一泊。 五色沼を散策して会津若松に出て飯盛山、鶴ヶ城を歴訪した。

磐梯吾妻スカイラインは東吾妻山の山腹を登る。火山性ガスにより、草木が枯れて地肌が露出した荒涼とした風景は忘れがたい。吾妻小富士に登り、そこから反対側の浄土平を見下ろせば、対照的なのどかなビロードのような草原の中に沼が点在するロマンチックな湿原である。

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吾妻小富士山頂から見た地肌が露出した荒涼とした風景

秋元湖、桧原湖、五色沼は明治21年の磐梯山の噴火により発生した火砕流によって川がせき止められてできたものという。昔の村は一瞬のうちに土砂に埋まってしまったのだそうだ。磐梯山の北側はなるほど半分無くなっている。

会津の飯盛山の中腹で「会津さざえ堂」を発見。1796年創建の旧正宗寺三匝堂である。江戸時代に観音札所順礼とい う民間信仰に基づいて案出されたものであるが、オランダが持ちこんだ西洋建築のダブルヘリックス型階段の図面からヒントを得たのではないかといわれてい る。全国に幾つかあったとのことだが、現存するのは会津若松市、群馬県本庄市、茨城県取手市、埼玉県児玉市の4ヶ所とのこと。

本庄市のさざえ堂は外見は銀閣寺のように見えるが内部は三層になっており、時計回りに三巡する右三匝(うにょうさんそ う)になっており、一度もおなじ通路を通らないようになっているところは同じ。正式には百体観音堂と呼ばれ、天明3(1783年)の浅間山の大噴火の火砕 流で亡くなった700人の遺体が流れ着いたのを供養したものという。

シングルヘリックス型の建物としてはフランク・ロイド・ライト設計のグッゲンハイム美術館があるが、ダブルヘリックス型はめずらしい。ダブルヘリックス型はレオナルド・ダビンチが考案し、フランソワ1世がロワール河沿いのシャンボール城の中心に採用した。

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会津さざえ堂

戊辰戦争当時、飯盛山の白虎隊20人の自刀の丘の中腹を横切る水路に疑問を持って上流にたどって行くと山腹のトンネルから流れでている。戸の口洞穴と いう。看板によると猪苗代湖の水を灌漑用水とするために元和年間に作られたものという。猪苗代湖の水が流れ出す十六橋近傍で官軍に負けた白虎隊がこの 150メートルのトンネル経由で飯盛山に逃げてきたのだという。水路にそって鶴ヶ城が見える山の中腹まで来て、城の方角に火の手が上がるのを見、もはやこ こまでと観念したようだ。人生経験の少ない若者が心理的に追い詰められたと納得できる地形である。

鶴ヶ城

会津の人はよく「いまだに長州への怨念を抱いている」という。しかし神戸大学助教の田中悟(さとる)著 「会津という神話」によればこの感情は実は戦後の風潮であるという。戦前は徳富蘇峰などの宣伝で賊軍の汚名も払拭され、会津の「勤皇精神」は国民が見習う べき規範とされていたのだ。しかし大東亜戦争の敗戦という二度の敗戦を経験して「軍国主義の寵児」という側面を「忘却の淵に沈め」、好都合な「司馬史観」 に乗り換え 、観光に利用したのだという。会津は意外にしたたかなのだと。

とはいえ、最後の藩主松平容保(かたもり)は京都守護職であり、その弟の京都所司代=松平定敬(さだあき)が、慶応3年(1867年)11月に京都見廻組に命じて龍馬を殺害した”というのが現在最も有力な説である。ほかにも薩長同盟の藩士の暗殺というテロを繰り返し、恨みを買って いたので官軍に平定されたのち、藩士達は岩手など僻地に流されるという過酷な運命が待ち受けていたのも事実。

August 26-27, 1996

Rev. February 8, 2013


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