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968

アルベール・カミユの墓

2005/07/07

パリ、シャンパーニュ・ブルゴーニュの旅から帰った2005/6/30の朝日に「忘れられたカミユの墓」という大久保昭男氏の随筆を読んだ。サルトルとカミユはわが青春時代に影響を受けた人だ。

当時カミユがマルクス主義、ソ連共産主義を批判、サルトルが資本主義、植民地主義批判をして、サルトルが勝った。傷心のカミユは生地のプロバンスはリュベロン山塊のルールマラン村(Laurmarin)に終焉の地を求め、隠遁した。だがたまたま所要でルールマランからパリに出かけたとき不条理な自動車事故で若くして死ぬのである。

歴史はカミユに軍配をあげ、サルトルは負けたことになる。ところがサルトルの墓はモンパルナスにあるのにカミユの墓はルールマラン村にあるという。アビニヨンの東方20kmの地点である。

大久保昭男氏が当地を訪れた時、その墓に詣でる人の絶えてなく、無縁仏さながらであったという。墓石は平たい石で、表面に刻まれた銘も殆ど読み取れないくらい風雨にさらされていたという。ノーベル賞に輝いた作家としてはあまりにも質素にみえた。

人の運命、作家の人気、評価の頼みがたさを思わせた墓参であったという。

リュベロン地方はピーター・メイルの「南仏プロヴァンスの12ヶ月」で一気にその名を知られるようになった風光明媚なところだ。カミユのファンとしてはいずれプロバンスを訪れることがあるならルールマラン村もリストに入れようと思う。


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