メモ

シリアル番号 表題 日付

767

若宮大路

2003/11/11

鎌倉の鶴岡八幡神社の前の参道を八幡大路と呼ばす、若宮大路というのかとの小学生の質問があった。

平安中期・後期の武将で奥州でおきた前九年の役で活躍した源頼義 みなもとのよりよし 988〜1075が前九年の役後の上京の途中、鎌倉の由比(ゆい)郷に八幡宮の若宮を勧請(かんじょう)したことにはじまる。いまでこそ八幡は全国にゴマンもあると言われる程あるが、(実際には3万)当時、戦いの神と言われた山城の石清水八幡宮の本宮は天皇の命により勧請される位、格が高く、本宮を勧請できなかった。やむを得ず格の低い本宮の祭神の分霊を奉斎した若宮を勧請したと考えられる。

1063年になり、源頼義が本宮を、鎌倉の由比郷に勧請した。その後、1180年源頼朝は同社を小林郷の北山にうつした。2年後、参詣道として若宮大路もつくられたが、91年(建久2)の大火で社殿焼失。同年末、頼朝は現在の位置に、新たに本宮を建設した。

若宮大路は今は幅25mであるが、オリジナルは幅30mあり、両側は馬も越えられない溝が掘ってあった。そして今でも下馬と呼ばれているところには升形(ますがた)があり、池と太鼓橋、裏山の石垣などと組み合わせ、八幡宮は城の機能を兼ねたものであった。升形とは城門を前後二重に設け、その間の四角な平地の周囲に石垣を造り、出陣のとき軍勢が集まり、また、ここで表門から侵入した敵を攻撃するための構築物。

鎌倉五山も全て八幡宮と同じ山城の構造をもっている。また鎌倉を取り巻く稜線を馬1匹しか通さない切り通しでカットして侵入者が稜線上を移動することも出来ないようにしてあり、鎌倉全体が山城の構造を持つように工事してある。

プロバスクラブで内海恒雄氏


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