メモ

シリアル番号 表題 日付

705

ドレフュス事件

2003/04/11

フランス陸軍の機密をドイツに売る密書が見つかったとき、参謀本部附き砲兵大尉アルフレッド・ドレフュスに容疑がかけられ、1894年筆跡が同一と判定されて軍法会議で終身禁固の有罪判決を受けフランス領ギアナに流刑となった。ドレフュスはユダヤ人であった。

その後、新任の参謀本部情報部長ピカール中佐はエステラージー少佐の筆跡があの密書と同じものであることを発見。その報告は参謀総長により握り潰され、ピカール中佐はアフリカのチュニスへ転任を命じられた。

ドレフュスの兄に告発されて軍法会議にかけられたエステラジー少佐は、威信がゆらぐことを懸念する軍によって、1898年無罪の判決をいいわたされ、逆にピカールは文書偽造によって収容された。

1898年、文豪エミルール・ゾラは新聞に「余は弾劾する」という題で、大統領に宛てた長文の公開状を急進派クレマンソーの発行する日刊紙「オーロール」に発表し、ドレフュスを冤罪に陥れた軍の関係者、筆跡鑑定人、陸軍省、軍法会議を、痛烈に弾劾した。

再審をもとめるドレフュス派に対して、軍の上層部、王党派、カトリック教会など共和制に批判的な勢力は、軍の決定をうたがうことは国家や軍の威信を傷つけるものであり、また、ユダヤ人のために国家の栄光を傷つけるべきではないとする人種差別論を展開し、反ドレフュス派を構成した。ゾラは名誉毀損(きそん)で陸軍大臣に告訴され、讒謗(ざんぽう)罪で禁固1年、科料3,000フランの有罪判決を受けた。

ドレフュス派と反ドレフュス派の抗争は、共和制維持と共和制打倒をめぐる政治的対立に発展し、両派の街頭行動や衝突にまで拡大した。1898年初の選挙では、ドレフュスの再審が大きな争点になったが、形勢はドレフュス派に不利だった。8月になると、参謀本部に勤務するアンリ大佐がドレフュス有罪の決め手となった証拠を偽造したことを告白し、収監されたアンリはなぞの死をとげた。状況証拠は犯人がエステラジーであることをしめしており、彼はただちにイギリスに亡命した。

1899年になると、ドレフュス有罪を宣告した軍法会議の判決が、上級審である破棄院の審理にゆだねられた。破棄院は、軍部や政府、国粋主義団体の圧力や脅迫の中で、同年5月、審理を軍法会議にさしもどす決定をくだした。

これに先だつ1899年2月には、反ドレフュス派の大統領フォールが死去し、後任の大統領にドレフュス再審を主張するルーベがえらばれ、6月にはドレフュス派からなるワルデック・ルソー内閣が発足していた。ドレフュス有罪をきめた軍上層部がうたがわれはじめた。

1899年ドレフュスは5年ぶりに本国の土をふみ、フランス西部の都市レンヌで再審軍法会議がおこなわれた。軍にとっての問題は、ドレフュス有罪の真偽ではなく、誤審した軍のメンツをいかにまもるかにあった。数日間の審理でドレフュスはふたたび有罪とされ、ただし情状酌量の余地ありとして、刑期は10年間に短縮された。ドレフュスはあらためて再審請求の手続きをとったが、政府はドレフュス特赦の大統領令を公布した。軍部の顔をたて、ドレフュスの苦痛をおわらせるという政治的な決定であり、政府は裁判をめぐる混乱がつづくことをのぞまなかったのである。

ほとぼりがさめた1906年破棄院はあらためてドレフュスの無罪を宣言し、ドレフュスは軍籍にもどって少佐になり、ピカールは少将に昇進した。10月にはクレマンソー内閣が成立し、ピカールは陸軍相になった。


トップ ページヘ