メモ

シリアル番号 表題 日付

430

高橋是清

2000/5/25

平成不況克服のため宮沢蔵相が高橋是清と同じ奇跡を起こすことを期待されたためである。

高橋是清は1913年(大正2)山本権兵衛内閣で蔵相となり、立憲政友会に入党。18年の原敬内閣でも蔵相をつとめ、原首相暗殺後に全閣僚留任のまま首相をひきついだが、閣内不統一で翌年総辞職した。のち農商務相をへて25年に引退したが、金融恐慌に際して田中義一首相にもとめられて、1927年(昭和2)4度目の蔵相の座につく。モラトリアム(支払猶予令)などの措置で事態が鎮静すると、在職42日で辞任した。

1929年(昭和4)ニューヨーク株式市場の大暴落にはじまった世界大恐慌の波及によって、日本経済が30〜31年におちいった昭和恐慌は30年(昭和5)1月、立憲民政党の浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相が金本位制に復帰した。

金解禁の目的は、財政緊縮を柱に貿易の拡大をはかり、産業合理化によって国際競争力を強化することだった。しかし、思惑買いによる為替相場の混乱で、大量の金と在外正貨がうしなわれ、また1929年にはじまった世界恐慌(→ 恐慌)の影響で輸出が不振となり、国内の輸出産業が大打撃をうけることとなった。

こうして昭和恐慌が深刻化し、1931年には満州事変が勃発(ぼっぱつ)、さらにイギリスの金本位制離脱によって、国際金本位制は崩壊の危機におちいる。同年12月、政友会の犬養毅内閣の成立とともに、高橋是清蔵相によって金輸出がふたたび禁止され、金解禁政策は1年11カ月で失敗におわった。

1932年(昭和7)5月15日、"五・一五事件"で首相犬養毅は軍部に暗殺された。高橋是清蔵相は金輸出再禁止や国債大量発行で昭和恐慌をのり切ったが、軍事費抑制を主張したことから1936年の二・二六事件で暗殺された。これ以後軍部の暴走を止める人は出ず、第二次大戦に突入することになる。政府が赤字国債は発行し、日銀がこれを引き受ける構図が継続した。日銀が平成デフレ解消法としてクルーグマン教授が提唱したインフレ期待を作る役をきらった理由はこの歴史的記憶に起因する。

1932(昭和7)の高橋是清蔵相の国債大量発行はケインズ(John Maynard Keynes)が失業対策としての政府の公共投資の役割の重要性を主張し1936年の不朽の名著「雇用・利子および貨幣の一般理論」をあらわした4年前のことである。

高橋是清は幕府御用絵師の子として江戸に生まれ、仙台藩足軽の養子となる。1867年(慶応3)藩の留学生として渡米したとき、だまされて奴隷に売られる。しかし助けられ、英語が堪能になって帰国。帰国後、文部省をへて農商務省にはいり、1889年(明治22)、初代特許局長に昇進するが職をやめ、ペルーの銀鉱開発事業を手がけて失敗。1892年日本銀行にはいり、1911年同総裁に就任。この間、日露戦争の戦費確保のためのイギリスでの外債募集に成功して男爵位をうけ、貴族院議員に勅選された。

以上エンカルタおよびNHK-TV


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