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1466

ドイツの恥部
2015/7/10

鎌倉プロバスクラブの卓話者として元興銀の吉野氏からドイツ留学の思い出を聞いた。私の「憲法と原子力」の話に刺激されてこの話題をえらんだようだ。現在のドイツになるまでの過渡期の話しとして大変面白かったので紹介する。

パスポートも持ち出し外貨も制限されていた1967年、吉野氏は社命でフランクフルト・アム・マインの大学に留学した。

フランクフルトはフランク族が渡った浅瀬という意味でドイツに2つある。フランクフルト・アム・マインはマイン河のフランクフルトという意味で西ドイツにある。ちなみに東ドイツにあったのはフランクフルト・デル・オーデルと呼ばれた。

さてフランクフルト・アム・マインは商業の街であった。したがってユダヤ人が多かった。かの「赤い盾」マークのロートシルト家は 王様から許されて町の中に館を構えていたが大部分のユダヤ人は城壁の外にゲットーを作って住んでいた。(城壁の外のゲットーとは先日ウィーンを歩き回って 運河を渡るとあの独特の山高帽をかぶったユダヤ人を何人かみました)かの有名なアンネ・フランクもフランクフルトからオランダに逃げてそこでつかまってし まったというわけ。

さて銀行の先輩から「お前は頭に浮かぶ言葉をそのまま率直に話すくせがあるが、ここドイツでは口は災いの元だから用心せよ」と注意されていた。

フランス語も同じだが、ドイツでも家族や親しい友人同士はduで呼び合う。その他はgeeである。さて大学の寮で早くduで呼び合う友人を作ろうと毎日酒 をのんで努力していた。ちょうどそのころ日本のGNPがドイツのそれを超えた。「なんでそうなのか」と仲間から聞かれたときに先輩の忠告を失念して、へま をしてしまった。「日本は何でもまねるが一つだけまねをしなかったものがある」といったのである。覆水盆に戻らず。「それはなんだ」ときかれ、「KZ」と 答えた。その時その場が一瞬凍りついた。そのころKonzentrationslager(ナチ強制収容所)はドイツ社会のタブーでだれも触れてはいけな い話題だったのだ。部屋から黙って出ていった人もいたが、友人のとりなしで殴られずに済んだ。

それでもアウシュヴィッツは見て帰りたいとおもっていたらポーランドのクラカウ経由アウシュヴィッツ見学会に参加できた。仲間のドイツ人の同級生とイタリ アからの女性留学生と吉野氏でちょうど三国同盟のメンバーだった。汚い鉄道のあと未舗装の凸凹道をおんぼろ貸切バスでアウシュヴィッツについたが、見学者 はすべてポーランドの修学旅行生、案内人は生き残った元収容者で昔の恨みを晴らそうと敵性言語のドイツ語を駆使して熱を込めてはなすので大変つらい時間で あった。イタリアからの女子留学生が売店で花を買って備えてくれたので若干気持ちも楽になったが一緒のドイツ学生は来るときのやんちゃ坊やは幽霊のように なっていた。クラカウについたらちょうどロバート・ケネディーが暗殺されて町中ひっくり返す騒ぎであった。

1969年のブラント首相のころからドイツ社会は変わった。その後の1985年の米国映画「ホロコースト」がドイツでも上映され、タブーを隠しておくことも出来ないようになった。

ナチだけが罪をかぶっているがじつはロシアのアレキサンドル3世はもっと徹底した弾圧をしている。しかしナチは民主主義の手続きで政権をとったということ を忘れてはいけない。大統領令と全権委任法によって憲法を事実上停止し対立政党の禁止や長いナイフの夜による突撃隊粛清などにより政治的敵対勢力を全て抹 殺してあれだけのことをしでかしたのだ。どこかの国の首相もどうもおなじことを狙っているようにしか見えない。

世界産業遺産の指定の交換条件として強制労働をみとめたがこれも日本ののどに突き刺さった棘だ。


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