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1421

山田方谷(ほうこく)と河井継之助
2014/06/14

山田方谷は幕末期の儒家・陽明学者。備中松山藩の財政を立て直す。大政奉還とそれに続く鳥羽・伏見の戦いにおいて、老中として大坂城の将軍・徳川慶喜の元 にいた勝静は、幕府側に就いて官軍と戦うこととなった(戊辰戦争)。これに対して朝廷は、岡山藩などの周辺の大名に、松山藩を朝敵として討伐するよう命じ た。突然の出来事に対して、松山の人々は動揺した。方谷は、主君勝静に従って官軍と戦うよりも松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主 を立てることと、松山城の開城を、朝廷に伝えた。

河井継之助は江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。、継之助は備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。初めこそ、農民出 身の山田を「安五郎」と通称で手紙にしたためるなどの尊大な態度に出ていた継之助も山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐ に態度を改めて深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、佐賀、長崎、熊本も訪れ、知見を広める。翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横 浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを 知ると急ぎ江戸へ戻る。藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却。その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、ま た新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)・スネル兄弟などからアームストロング砲とガトリング砲とイギリス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入 し、海路長岡へ帰還した。ちなみにガトリング砲は当時日本に3つしかなく、その内の1つを継之助が持っていた。


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