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1398

錦木
2013/07/11

民放のディレクターをやっていた田中氏から能因法師の歌「錦木はたてなからこそ朽にけれ  けふの細布むねあはしとや」とゴッホとの関係を聞いた。

能因法師の歌は次の民話をベースにしている。

鹿角が狭布(きょう)の里と呼ばれていた頃、大海(おおみ)という人に政子姫というたいへん美しい娘がいた。東に2里ほど離れた大湯草木集落の里長の子に錦木を売り買いしている黒沢万寿(まんじゅ)と いう若者がいて、娘の姿に心を動かされた。若者は、錦木を1束娘の家の門に立てた。錦木は5種の木の枝を1尺あまりに切って1束にしたもので、5色の彩り の美しいものであった。この土地では、求婚の為に女性の住む家の門に錦木を立て、女性がそれを受け取ると、男の思いがかなった印になるという風習があっ た。若者は来る日も来る日も錦木を立てて、3年3か月ほどたったところ、錦木は千束にもなった。政子姫は若者を愛するようになった。政子姫は五の宮岳に住 む子どもをさらうという大鷲よけに、鳥の羽を混ぜた布を織っていた。これができあがって、喜びにふるえながら錦木を取ろうとすると、父はゆるさぬの一言で 取ることを禁じた。若者は落胆のあまり死亡し、まもなく、政子姫も若者の後を追った。父の大海は嘆き悲しみ、2人を千本の錦木と共に手厚く葬ったという。

世阿弥の謡曲「錦木」で世間一般に流布した。時移って花魁の源氏名にこのロマンティックな錦木がつかわれるようになった。そして吉原では客確保目的で花魁のブロマイドが浮世絵として売られていた。さてゴッホ が広重の名所江戸百景「大はしあたけの夕立」(大橋安宅の夕立)を模写したことは昔からよく知られている。しかし模写した絵の枠組みに書かれた「吉原八景 長大屋木」とか「大黒屋錦木江戸町一丁目」などの漢字をゴッホがどこからとったのかはなかなかわからなかった。田中氏は興味を持って調べて「吉原」とか「錦木」の文字から花魁のブロマイドではないかと探した結果、まさにゴッホの書いたと同じ文が書いてある浮世 絵を発見した。こうしてゴッホはこの文字の意味は理解しないまま使ったと田中氏は推理した。さらに当時の吉原の地図からその花魁の 居た大黒屋も特定したのである。番組つくりとしてはこの推理を全面に出した教養番組にすればよいのに娯楽番組として造ったのは失敗だったと反省している。

念のためネットで調べると森川和夫氏の浮世絵シリーズの最後にこの番組の発見について言及しているのを見つけた。


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