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シリアル番号 表題 日付

1386

都々逸
2013/02/16

文政年間に都々逸が出來た譯ですが、あの都々逸を創りました都々一坊扇歌と言ふ人は偉い人で最初は落語家にならふと土橋亭里う馬と言ふ噺家の處へ弟子入り をし度いと頼みに行った處が「お前さんは色も黒いし、栃木訛りが有るから噺家は諦めて故郷へお歸り」と斷られてしまった。それからは聲が良いので、一寸洒 落や色氣を入れた歌を始めた處 船遊亭扇橋と言ふ大看板の噺家に認められて扇橋の弟子になり扇歌と言ふ名前を貰った譯です。頭が禿げて坊主見度いだったの で、都々一坊扇歌となりました。それ迄は本名の福二郎で門付けをして居ました。是が受けて段々と出世して大看板になりました。もう何十年も經ってから噺家 の總會見度いな集まりがあった。大看板の都々一坊扇歌は上座にでんと構へて居る。ふと見ると落ちぶれた里う馬が一番下座に座って居るので、扇歌は里う馬の 處へ行って「師匠が噺家は止めろ、と言って下さったお陰で、今日の私が有るんで、師匠は私の大恩人では御座居ませんか、何卒私の隣へお座り下さい」と言っ て、手を取って、里う馬師匠を上座へ連れて行った、と言ふ逸話が残って居る位、律儀で恩を忘れない、立派な人だった、と言ふ事です。

都々逸は歌の事で、藝名は都々一坊扇歌。歌は「逸」で藝名は「一」ですが、間違へて良く使はれて居ります。

雅蘭洞英齋居士



上のお話しは我がメールに日本の官僚がいろいろな局面に必要でもないのに口をだして分け前(中国3,000年の歴史にでてくる科挙で選抜された役人のよう などぎつい直截なものではなく、合法的に見えるようにふるまっているため、余計始末が悪い)を要求してくる思い出をかたったことに対する氏の返書にあった ものでそれは次のように始まる。



科學の世界でもさふですか。何處でも、官僚が乗り出して來るのですね。

今から百年も前に福澤先生がニューヨークの森村商事の専務宛の手紙の中で「・・・・つまりは政治繁昌の大日本國、十萬の役人が色々にして自國を食ひ亡ぼすに相違これ無く、・・・(後略)」と書いて居ます。

グリーンウッドさんも當然お讀みになって居られる左傳(春秋左伝)にも「國將亡必多制」(國まさに亡びんとするや必ず制多し)と書いて有りますね。

何でもさふですが、人間は多勢集まって來て、權力と金が集中すると、お山の大將に成り度く成るのではないでせうか。踊りでもお花でも、皆、一寸實力(?)らしいものが付くと新しい流派を起こし度く成るものです。

僕は二十代から清元を習って居りますが、幸ひ清元は「高輪派」と「梅派」の二つだけで、仲良く遣って居りますが、是は邦樂の中でも文化年間に富本節から別れた比較的若いものだからでせう。


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