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サピア=ウォーフの仮説
2012/07/09

Sapir-Whorf hypothesis (SWH)は、如何なる言語によってでも、現実世界は正しく把握できるものだとする立場を懐疑し、言語はその話者の世界観の形成に差異的に関与することを提唱する仮説。言語相対性仮説とも呼ばれる。

太陽の色

サピア=ウォーフの仮説の実例として英語国の子供に太陽の絵を描かせると、黄色、日本の子供は赤に塗る。これは英語で黄色の太陽はという言葉があり、日本 語では赤い太陽という言葉があるためであるとされている。他の国ではどうなのか?ドイツ在住の望月氏に聞くと、ドイツ、フランスの子供は黄色に描くとい う。

ゴッホの書簡集には;

「(アルルでは)毎日太陽は黄色く輝いている。」
「大きな黄色い太陽が…」
「白い太陽は黄色い光輪で囲まれている。」

とあるそうだ。更に《赤いぶどう畑》では、白い太陽のまわりに黄色い背景を描いている。《種まく人》 では、明らかにミレーを意識したと見られる構図に黄色い太陽があり、さらにその周囲の空には放射線状に黄色が塗られている。《刈り取る人のいる麦畑》は彼 の最後の作品となったが、ここにも黄色い太陽がある。

ボードレールの『悪の花』の一節には。

あの裸の時代の思い出を私は愛する。
その石像を〈太陽神(フォイボス)〉は好んで金色に染めたものだ。
・・・

太陽を金色や黄色と考えるのは中国でも同じらしい。中国の旧正月の祭である春節(チュンジエ)の日、上海の商店街の中の広場に金色に塗った羊の像が数体 飾る。これは中国語の羊の発音が太陽の陽の字と同じ「ヤン」なので、羊は太陽の象徴になるからだという。羊が金色なのは太陽の色だから。

イギリスのターナーもよく霧や雲やもやなどの中の太陽をよく描いた。その色はたいてい白っぽい黄色である。『解体のために最後の停泊地に曳航されていく 戦艦テメレール号』という絵の中の太陽も白っぽい黄色である。ところがこの画集の日本人の解説に「この赤い落日は去りゆく時を暗示している」とある。どういう目をしているのか??

古代エジプトでは太陽の色だけでなく、太陽と関係ある神様の肌はほとんど金色に塗られ、金色の衣服を着て金色の光輪がついている。

科学的には太陽全スペクトルの合計が白と定義されているから白が正しい。

ではなぜこうなったか?古い日本語のアカは色を表す語ではなく、「明るい」という意味だった。それが赤い色の名前として転用されるようになり、やがて「明 るい」という意味を(ほとんど)失って、「赤」という色名を表す語になったのである。万葉集では「アカキ」という語に「赤き」と「明き」の二通りの漢字を 当てていた。「アカキヒ」というのは「赤き日」とも読めるが「明るき日」とも読めたのである。したがって、最初は明るい日と赤い日とを混同する時期がしば らくの間つづいたものと推測される。つまり、色の名前か明るさをいう語かはっきりしない時期が相当長くつづいたと考えられる。

日本の国が島国で、長い間多民族との交流がとぼしかったために、間違いに気づく機会がすくなかった。でもなぜ日本人だけが今でも太陽は赤いと思い込んでい るのか。自分の目で太陽を見れば赤くないことは一目で分かるにもかかわらず、考えもせず大勢に従う思考停止の民族ではなかろうか。

韓国の国旗は赤い太陽だが、韓国の子供達は太陽の色をどう思っているのか興味ある。バングラデシュの国旗が緑地にオレンジ色の太陽、パラオの国旗 は青地に黄色である。日本国旗は白地に赤だが、正しくは青地に白でなくてはならない。明治3年に太政官布告57号で国旗を制定したのだが、この時の人々は 太陽が赤だと信じてい たようである。これだけでも日本は開国以来、サピア=ウォーフの仮説が支配している国だとわかる。すなわちサイエンスしない国であることを証明しているの ではないか?

青と緑

さて望月氏から日本人の「青」と「緑」の使い分けは、日本に独特のものでしょうかと聞いてきた。『目に青葉、山ホトトギス・・・』という具合に、古来の日本人がすでに混同していたのではという。そして「緑」というwikiを教えてくれた。それによると

東アジアの漢字文化圏、東南アジア、インド、アフリカ、マヤ語など中南米の言語にみられる。ミドリ(green)とアヲ(blue)とを分別しない言語 を、言語学者はグルー(grue)言語というのだという。古代日本語の固有の色名は、アカ・クロ・シロ・アヲの四語のみだった。 これによればアカは明るいと赤色と両義であったことも説明できるし。それにここに黄色がないのも太陽を赤に塗る原因かもしれない。そうすると日本人は言語的色盲ということなる。

グルー言語が熱帯をはじめ比較的温暖な地域に多いことから、これは野外活動により浴びる紫外線から 網膜を保護するために加齢とともに水晶体が黄変して、青色のような短波長の感度が低下し、実際に区別が困難になるためであるとする学説(lens- brunescence hypothesis)もある。現代でも高齢者は白内障による視界の黄変化により白と黄色、青と黒、緑と青などの区別が困難となるとは理系的説明 もされている。

警察が小学生に「青の時は進め」と説明したとき、「青 じゃない緑だよ」と言われて警察庁のお方がはた!と困った。従来のフィラメントと色ガラスの方法ではどうしても緑色にしかならない。法律を書き換えるより信号機を変えたほうが楽だということで、たまたま青 のLEDが日本で開発されたので一斉に切り替えた。結果は正解。省エネ効果が絶大。信号機の電気代は警察持ち。警察は電気代は交通違反摘発の罰金でねん出していたのだ。予算がなくなるとそれ摘発しろと上司から命令されて警察官は道にくり だしていた。LEDになって予算は不足せず、摘発は減った。これから原発事故で電気代金が上がるとまた警察官が道路に繰り出すのではと私は予測している。

こうして気が付いてみると青葉、青葉山、青葉台、青木ヶ原、青虫、青竹、青りんごなど青が多い。女房に聞くと近くで緑の木々も遠くになると青く見えるからではないかと。水晶体黄変説とともに説得 力はある。これは理系的説明で、空気が乾いているラスベガスや中東の砂漠では遠くの褐色の山は紫色に見える。そうすると紫山とでもいうのでだろうか。

そもそも青木なんて固有名詞としてはあるが一般名詞にはない。緑木が自然だ。だから英語にもブルートリーやブルーウッドはない。

ニッサンがモーリス・メーテルリンク作の童話劇青い鳥(フランス語:L'Oiseau bleu)からイメージしてブルーバードという車を開発したとき、 それでは米国では売れないと名前を変えた。フランスで売ろうとしたら売れたのだろうか?そうこうしているうちにフランスのルノーが日産を買ったのだか ら売れたといえるのかも。でも青色の鳥はいるのでフランス語は正しい使い方だ。

漢詩に出てくる青山は墓のことだが、同じ文化圏の産物なのだろう。堀居さんから別の資料が送られてきた。それによると漢字で「あお」色の意味を持つものは「青・碧・蒼」の 3 字である。中国人はこの3つを区別しているが、青と緑の区別をせず緑も含む。

青:暖色でない色の意味。三遊亭円朝の話に出てくる塩原太助さんと別れる馬は「あお」であるが、この馬は決して青い色をしているのではなかった。馬の「あお」と呼ばれるものは白馬と黒馬である。暖色じゃない色の馬の意味で、青の意味が広い。

碧:草のあおい色、みどり色、深あお色、あお黒い、薄あお色、草原の色

蒼:あおく美しい石(碧玉)、あお、みどり、あおみどり、濃いあお色

緑:糸偏がついていることからわかる通り、もとの意味が青黄色の絹布で、2 次的意義として青にまぜる黄色の染料をとるイネ科の多年草である。「緑」とは青黄色というからあきらかに「green」であろう。緑色の着物は身分の低い ものが着るものであるとされる。この「緑」は明らかに「あお」とは見られなかった明度の高い黄緑であったのであろう。

考察

日本は文系支配の国だから、文=言葉による洗脳という意味で「サピア=ウォーフの仮説」が適用できる国という考えは当たっていると思う。「原発は安全と言 わねば住民が反対する。ゆえに安全である」などなど。とても論理的ではない。魔女支配の国とでも言える。松下政経塾の連中はこの魔女能力だけ磨いていたよ うだ。松下魔女軍団とでも言えそう。

日本ではゴミをすべて焼却処理するということになっている。世界はそのように考えていない。二酸化炭素を削減するという国家目標とも矛盾する。このゴミ= 焼却と太陽=アカ、森=アオ、温暖化=二酸化炭素という等式はサピア=ウォーフの仮説そのものである。別の言葉でいえば思考停止。日本政府も地方自治体も 三陸のがれきをトラックで東京に送り焼却処理するということに疑問をかんじていた。この春、バイク仲間の大森の造園業者が横浜国大の宮脇元大学教授からこのがれきをあ つめて山を作り、その上に土をかぶせる構想に乗らないかと誘いをうけたがどう思うと意見を求められた。わたしはそれこそ正しい方法だからどんどん取り組む べきと進言し ていたが、湯河原に引退蟄居している元首相の細川氏がこの構想実現のために東北に出かけていると聞き、さすが一流の人物と感心した次第。ただ細川氏のよう なスケールの大きい人物は少ない。細川氏は野田首相にも掛け合い、国有地に関しては松に代わり広葉樹林に転換する林野庁のプロジェクトにしたという。

生成文法を提唱したノーム・チョムスキーは「人の思考は普遍的な心的言語で行われるものである」という説に立ち、人の思考は普遍的な心的言語で行われるも のである、人は、生得的に持つルール(文法)の上に、母語の文法を習得していくのである、と考察し、サピア・ウォーフの仮説を批判する考察を展開している が少なくとも日本ではこの批判は成立しない。

Rev. July 11, 2012


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