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1346

保科正之
2012/07/02

保科正之(ほしな まさゆき)は、江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、お江の子の家光と4代将軍家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。

母は秀忠の乳母大姥局の侍女もしくは武蔵国板橋郷竹村の大工の娘である静。

1617年、武田信玄の次女である見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子として養育される。

秀忠の死後、第3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残 した。これに感銘した正之は1668年に『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことが あれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最 後まで薩長軍と戦った。

江戸城の天守閣再建を永久に封印したように大名としては善政をしたことで有名。その素地は高遠藩で学んだことが大きい。家臣団をピラミッド型にせず、フ ラットな組織にしたこと。身分に基づく知行制を廃止し、能力主義の蔵米制をとったこと、住民の信頼を得ることなど、江戸期に良き伝統は彼に始まる。残念な がら後代の藩主が硬直化し『会津家訓十五箇条』を盲目的に守ろうとしたことに悲劇がある。

朱子学の信奉者


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