読書録

シリアル番号 776

書名

古代史の未来

著者

古田武彦

出版社

明石書店

ジャンル

歴史

発行日

1998/2/27第1刷
1998/3/31第2刷

購入日

2006/5/19

評価

鎌倉図書館蔵

引退後、考古学を学んで学士号を取得した友人、青木聖侑に古田武彦の「九州王朝説」をどう思うか聞いたところ。

「九州王朝説」も古田武彦氏も、それぞれ名前としては知っていますが、具体的なことはほとんど知りません。一〜五は、弥生時代の北九州博多湾周辺に「王朝」があったが、それが滅ぼされ、消され去ったということ。
・・・弥生時代後期の日本列島内には、北九州を始め有力なクニ(王国?)がいくつかできていた、と言うことは教科書的常識でしょうし、大陸に近い北九州の勢力が最も強かった、と考えている学者も多いでしょう。それは考古学的な成果の反映だと思います。
従って、「王朝」と呼べるかどうかを別にすれば、上記の古田説は(細かいことは分かりませんが)一つの説としてあり得ましょう。

と書いてきた。そして彼が、出土品の化学分析を手伝っている国立歴史民族博物館の研究部図書室で検索して30冊位の関連本をみつけ、3つばかり読んでみろという。そこで図書館にでかけたが見つかった古田武彦氏の著作はこの本だけであった。

古田氏は卑弥呼の邪馬台国近畿説はとらない。理由は大和には三角縁獣鏡が数千枚出土しているが中国からは出土しない。ということは国産品である。しかし北部九州からは漢式鏡が出土する。これが倭人伝にでてくる銅鏡百枚と一致する。もし近畿にあったなら大和に多量に出土する銅鐸が倭人伝で言及されていない理由がわからなくなる。

出雲は独自の銅鐸文明を発達させ、大和も影響下にあった。しかし北九州は三種の神器の文明圏。出雲の主が筑紫に国譲りしたのち、九州王朝が設立される。そして銅鐸は埋められる。

神武が北九州の日向から東征したが大和にはいれなかった。やむをえず熊野川河口の新宮に上陸し、十津川渓谷経由吉野に抜け、飛鳥に出たとしている。これなど司馬遼太郎が紹介している古座街道に残る言い伝えと一致する。

学士会報No.857(2006-II)の概要と同じであるが、よりくわしい。氏はそもそも津田左右吉の記・紀の神代巻は、六世紀の大和の史官の造作物とした説に疑問を持 った。古事記にある筑紫(ちくし)の日向(ひなた)と理解すれば、高祖(たかす)山連峰、日向山(ひなたやま)、日向峠、日向川があがある。日向山のとなりには「クシフル峯(だけ)」があり五王墓に囲まれていることが上手く説明でき ると気がついた。

考古学と文献の一致はシュリーマン流


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