読書録

シリアル番号 1181

書名

巨龍・中国がアメリカを喰らう  欧米を欺く「日本式繁栄システム」の再来

著者

エーモン・フィングルトン

出版社

早出書房

ジャンル

政治学・地政学・行政学

発行日

2008/9/25初版

購入日

2014/03/29

評価



原題:In the Jaws of the Dragon America's Fate in the Coming Era of Chinese Hegemony by Eamonn Fingleton

鎌倉図書館蔵

日本の製造業が空洞化し、貿易赤字が継続し、2014年に経常赤字に転落してしまった。どうすれば良いか途方にくれている日本だが、その原因を作ったの は、ほかでもな い儒教の伝統を引く日本であると厳しい指摘をされると成るほどと納得がが行く。ではどうすれば良いかの回答が最後に書いてある。すなわち米国が疲弊をさ け、覇権を失いたくなければ、グローバリゼーションをやめて関税をかけるだけでよいという。自由貿易は何も神聖なところなどない。米国は極端な自由貿易イ デオロ ギーを真に受けたアメリカのエリート層の理想主義で自滅に向かっているにすぎない。でも関税で米国は破滅から救われるが、日本は立ち行かなくなる。 TPP  Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreementなどとっくの昔に死んでいるのかも。

現時点で日本は中国に苦しめられているように見えるが日本が台湾・韓国・中国の勃興のリーダーかという。かって日本が「自由化さえさせれば全てうまくゆく」という西欧のドグマの裏をかいて表向きは西欧 の自由化に従うそぶりを見せながら、何のためらいも見せずに建前と本音を使い分けで鉄面皮にも官民一体になって重商主義政策(mercantilism)を採用し、高貯蓄率という非関税障壁を設けて米国の製造業を破壊し、空洞化させた、日本 の官僚のウソも方便の権威主義的統治手法にあるという。この手法は日本が満州統治で古に儒教の統治法を復活させ、太平洋戦争で予行演習した権威主義的統治手法に源流があると する。米国のリーダーは全くこの手法の恐ろしさに気もつかないうちに、まず日本、そして台湾・韓国にしてやられた。この手法を横から見ていた、ケ小平以降 の中国がそれに輪をかけて実施し、米国はいま完全に中国にとどめをさされつつある。とくに米国のビジネスマンとメディアは赤子の手をねじるように中国の官 僚に取り込まれた。メディア王ルパート・マードック、AIGのモーリス・ハンク・グリーンバーグなどは中国の代弁者になり巨万の富をたくわえた。米国の国防費すら中国財務省が購入した米財務省債券が支払っているのだ。

製造業を育成する上で日本と中国が採用した手法はカードなどの消費者金融を禁じて自国の貯蓄率を高め、原始的資本蓄積をおこなったことだ。テークオフした 日本はカードも使えるようになったが、中国ではいまだに事前に入金するデビッド・カードのみだ。儒教諸国の消費抑制策は西洋資本主義とゼロサムゲームを戦 うカラベル船以来の武器である。

この本が書かれたのは米国が金融危機陥いる前の2007年のことだ。その後、民主党と自民党の政治家主導の失敗で日中関係は尖閣列島を間にして緊 張してい るし靖国でぎくしゃくしている。尖閣と靖国が時々クローズアップされるのは、米国が日中それぞれが協調して米国を弱体化しているのでは疑いを持つようなと きにあえてこれらがクローズアップされている。例えばケ小平の初来日の数週間前の1978/10に14名のA級戦犯が靖国に合祀され、翌年に大平首相が参拝したこ と。アメリカの疑惑をそらす日本の陽動作戦とみて間違いない。1985/8に中曽根が参拝したのはアメリカのウェスティングハウスの原子炉をMHIが中国 に技術移転した時の陽動作戦であろう。

2004年に日本が国際連合安全保障理事会入りを米国に要請されたときにも、日本は米国の中東戦略に巻き込まれることを危惧して気乗りせず、ドイツ、イン ド、ブラジルと組むという気のりしない対策をとった、これに中国が協力して反対してつぶした。日本の外務省はがっかりした風情であるが、実は内心喜んでい たのだ。中国は日本の本音を知って協力したという見方を披露している。日本が安全保障理事会入りを望むときは米国が完全に疲弊し、覇権を失ったときだろ う。

日本の自動車産業は完全に過保護に守られている。韓国ですら日本の自動車市場には入り込めていない。ましてや米国、ドイツも締め出されたままだ。そして米 国の最後の航空機産業に日本のメーカーはじりじりと参入している。中国はその製造技術を日本から導入したのでいまのところ日中の貿易収支は日本の黒だが米 国は売るものがないので完全な赤字。

一時は米国を完全籠絡して勝利感にひたった日本だが、いまやこれをそっくり盗んだ中国共産党にしてやられて日本の官僚機構も真っ青だ。政治家は実施不可能 な政治資金規正法の恣意的適用で官僚機構に不都合な政治家は検挙され失脚するので裏で操る官僚のいうままである。中国の共産党の腐敗でいずれ中国は崩壊す るだろうと期待する向きもあるが、これは儒教の恐ろしさを知らない無知な西洋のはかない期待に過ぎない。切り捨てられるのは反逆分子でその理由は腐敗という 口実が使われるわけ。人民は腐敗分子がとりのぞかれたと溜飲をさげて、不満を解消するが、じつは権力闘争にやぶれた一派が権力機構から取り除かれただけのことだ。そういえば日本でも同 じような現象がみられる。日本は恐ろしい方向にむかってひた走っている。

日本も中国も法は曖昧に規定し、通常は目こぼししているが官僚が統治上必要になれば、恣意的解釈で厳しく取り締まるため法治国家とはいえない。日本が民主 主義国家というのはあくまで見かけである。実は日本は一党独裁国家で、官僚の代理人として活動している。政治家はせいぜい市民の陳情を官僚に取りつくこと くらいしかしていない。その党が官僚機構にとって不都合になれば党が割れるように操作できる。日本のメディアは世論操作のカルテルを形成し、エリート官僚 の代弁者としての役割りを隠そうともせず、嬉嬉としてその任に当たる。

なぜそうなのかというとアジアでは自由化は非統治者が血を持ってあがなったものでないため、西欧流の個人主義が育っていない。ところが集団の調和を第一と する孔子の教えは3,000年にわたって東アジアの人々のものの考え方に染み込んでいるためだ。だから日本を含むアジアの官僚機構は大した苦労もせず、世 界最大の人口を擁するこの地区を意のままに統治している。中国が共産党に乗っ取られたままというなら、日本はこの権威主義的な官僚機構や企業にのっとられ たままだ。

この本のトーンをみれば日本はいづれ、経済的に疲弊した米国を見捨てて似た者同志の中国と同盟するだろうと予言している。(安倍首相の集団的自衛権は逆噴射または靖国と同じチャフ程度のものか?)これは国家を乗っ取った 官僚にとっては望ましいことだが、そこで虐げられる日中人民にとっては官僚に任せていれば、自由をえることはなく、奴隷のような日々が待っている。彼らが 自ら血をながして自由を勝ち取るまではなにも怒らない。アメリカ対アジアの戦いは個人対集団の闘争である。これはブルドーザー対砂丘という構図で説明でき る。米国は砂丘なのだ。各個撃破できるブルドーザーに叶わない。細分化した社会は上から統制しやすい。儒教式組織に作りかえることが可能なのだ。アメリカ は反トラスト法でAT&T等を解体してきた。三権分立も儒教社会からみれば脆弱に見える。砂丘を守るにはコンクリートの壁で囲めばよい。すなわち 関税だ。

理屈では事故の金額的損失が大きい原発は放棄するのがもっとも安上りだが、だらだら継続されるのは継続が本能の官僚機構の習性だと理解できる。秘密保持法をつ くれば官僚機構の権力維持のための方便と成り果てる。憲法はあって無きが如く、恣意的運用に走る。道徳教育で子供達に儒教の和の精神を植えつけ、ますます羊 のような国民を再生産しようとするなど危険な方向に走ろうとしている。個人は官僚任せにせず、しっかりしなければ自らを守れない。

2014/4/1、調査捕鯨は調査に非ず、商業捕鯨だとオランダの国際司法裁判所で認定された。いよいよキリスト教の影響下にある西洋も儒教官僚国家日本 のウソ体質、または法の恣意的適用に気が付き、対決姿勢になったということなのだろう。官僚が大きな顔を出来た時代は終焉を迎えるのか?

西村吉雄氏は「電子立国は、なぜ凋落したか」で、その凋落の過程を分析している。日本のエレクトロニックスがダメになったのは米国における「企業の研究開 発における一つの時代」、すなわち「中央研究所の時代」、が終わろうとしていたのに日本企業の中央研究所は、エレクトロニクス分野では、AT&T 社、IBM社、RCA社などの米国企業の中央研究所を長くモデルにしていた。「キャッチアップは終わった、さあ、これからは基礎研究だ」と日本企業が基礎 研究所を新設する。あるいは既存研究所における基礎研究を拡大した。バブル経済崩壊後の経済低迷が続くなか、官僚主導の政府は1995年に科学技術基本法 を制定した。この法律に基づき、科学技術基本計画が1996年にスタート。以後毎年、4〜5兆円の公的資金が科学技術分野に投入されてきた。1990年代 の後半以後、半導体分野では数え切れないほどの産学官連携の共同研究プロジェクトが実施され、公的資金が投入された。しかし、これらのプロジェクトが実施 されていた時期に、日本の半導体産業は、ひたすら衰退への道を歩んだのだ。たとえばシステムLSIは、どんな機能を持ったLSIか、で市場競争をする。す なわち「何を作るか」がcompetitiveな領域である。この認識を受け、「いかに作るか」すなわち製造技術は、precompetitiveな領域 ということになった。その結果、国の関与する共同研究プロジェクトは、もっぱら製造技術の研究に従事する。ところが最近になって、日本の半導体メーカーは 製造工場を維持できなくなる。製造を外国のファウンドリに委託し、自らはファブレスへ向かう。製造技術に関する研究成果の受け手が、国内には、いなくなっ てしまったのである。税金を投入して研究した成果の受け手が、国内にはいない、こういう事態になっている。製造がprecompetitive領域なら、 各社が利用できるファウンドリを国内に創設し、各社はファブレスになるべきだったのではないか。しかし2000年代の後半に至るまで、日本の半導体メー カーはファウンドリもファブレスも嫌い、各社それぞれが製造工場を社内に持ち続けようとした。この各社の意向を受け、各社が受け手となるはずの製造技術プ ロジェクトが次々に創られる。その成果が出てくるころに、各社は製造工場を維持できなくなり,ファブレスへ走る。こうして受け手のない研究成果が積み上 がっていく。官と民のもたれ合いによる税金の無駄遣いと言わざるを得ない。何も理解できない政治家はだだ財布のひもを緩めっぱなしだった。

クレタ人のエピメデスが言った「クレタ人はみなウソつきだ」がある。これは自己言及の構造で無限循環に陥っているので明白なウソである。イン ディアンの酋長の「白人ウソつく、インディアンウソつかない」はたぶん正しい。本著の著者エーモン・フィングルトンが「儒教国家はウソをつく」も「キリスト教国はウソをつかない」とは言っていないので多分正し い。だからゼロサムゲームで勝つ。ただゼロサムゲームでなくなれば日本を含む儒教国家は万事窮す。西欧がゼロサム・ゲームから抜ければいいわけ。政治の世 界では、個を大切にする国家は集団中心の国家に勝てないが、個が主体となるイノベーションの世界では集団中心の国家は日本のエレクトロニックス産業のように負けるということだ。

Rev. April 3, 2014




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