読書録

シリアル番号 1118

書名

零式戦闘機

著者

吉村昭

出版社

新潮社

ジャンル

歴史

発行日

1978/3/30発行
2012/5/20第50刷

購入日

2012/10/23

評価



新潮文庫

大学の同門、倉見から面白いから読めともらったもの。戦艦武蔵の姉妹編

有名なゼロ戦の話だが、知らないことが沢山あった。たとえば三菱名古屋航空機製作所は名古屋市の港区大江町の埋め立て地区にあり、飛行場は岐阜県の木曽川沿いにあった各務原(かがみはら)飛行場にあった。この間の輸送は機体を解体して牛車で運んだという。道路が舗装してないため、トラック輸送は無理だった。中島飛行機太田工場、愛知飛行機名古屋工場、川西航空機姫路工場も同じで飛行場はもっていなかった。

製造も工場拡大、作業員増員、前進作業という流れ作業が考案されて増産された。また水島に新工場も建設された。戦争後期に入り、鉄道輸送、河船輸送、ト ラック輸送も検討されたがいずれもうまくゆかなかった。不思議なことに道路を拡幅し舗装するということを検討する人はいなかった。それゆえ牛の消耗が激し く、帰りはトラックで送り返したり、ビールを飲ませることもしたが当初50頭いた牛も30頭に減っていた。工場長から相談を受けた三菱本社副社長の岩崎彦 弥太は岩崎牧場の管理者に検討させてペルシュロン系の馬を推奨した。ペルシュロン系は最終的に80頭になった。しかし購入価格が統制違反として担当者は有 罪となった。エサ不足で牛も馬も衰弱し、生き残った牛はゼロ、ペルシュロン系は15頭であった。

1937年重慶への渡洋爆撃の行われた頃、海軍からゼロ戦のコンペが三菱に申し込まれた。設計課長は主務設計者として設計課の堀越二郎を任命。

可変ピッチプロペラは飛行速度が高くなってもエンジン回転数を一定に保持するように自動的に調節するために採用されたが、二翼プロペラで振動が激しいので三翼に交換した。ところでエンジンは中島飛行機の栄という星形空冷だがシリンダー2個だけみればハーレーと同じ構造だ。

航空機のスピードが高くなると舵が重くなる。操縦系統に弾性を持たせると緩和する。

昇降舵のマスバランスの取り付け腕が弱く破壊されると昇降舵のフラッタリングが生じ、空中分解する。

ゼロ戦の初陣は三菱の設計課の本庄季郎技師が設計した九六式陸上攻撃機の重慶爆撃に護衛機として参加、27機撃墜、発進は漢口基地、給油は宜昌(ぎしょう)基地。後に成都(温江飛行場、大平寺飛行場)と昆明を攻撃。

高速時補助翼が思うくなるのをさけるためタブバランスを装備したが、機体の限界を超えて飛んでしまい空中分解するため、撤去した。

真珠湾攻撃時は同時に高雄からフィリピンへの無着陸渡洋爆撃にゼロ戦が参加できた。

このように高性能が証明されていた。その機密を米国がしることになったのはアッツ島ダッチハーバー東方の無人島に不時着したゼロ戦が無傷で米国に渡ったか らである。これに試乗したジョン・サッチ少佐はゼロ戦とは1対1で戦ってはならないという戦法を考案した。これに加えグラマンF6Fヘルキャットが開発さ れ、これが2機チームで挑んでくるようになった。ゼロ戦投入後4年経過していたが、日本は新機種を投入することはできなかった。

そしてミッドウェー海戦の敗北は巨艦巨砲主義が一気に崩壊した。

そしてついにカミカゼ攻撃に至るのである。そして名古屋工場は1944/12/7の地震・津波と引き続いた米軍の爆撃で破壊された。工場疎開も行われ、設 計試作部門は松本市の片倉紡績工場、長野市にも陸軍四式重爆撃機「飛竜」の生産部門第五製作所の一部が移されたという。私は長野市でそだったがグラマン機の攻撃は松代に大本営の移転先だからと 理解していた。主として当時あった豆島飛行場と国鉄の機関庫が爆撃された。まさか三菱の飛龍の生産部門が疎開していたとは知らなかった。


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