GEはなぜ、そしていかにしてBWRを開発したのか?

グリーンウッド

 


原子力を原潜の動力源にしたいと考えたリッコーバー大佐がチェスター・ニミッツ提督に直訴して認められたのが今日の原子力発電の端緒となった。これに協力 したのがウェスティングハウス社とGEであった。GEはナトリウム減速の中速中性子金属炉の開発を担当し、シーウルフ号に搭載したが、ほどなくナトリウム 漏れ事故を起こし、加圧水炉(PWR)に換装されてしまった。

Oak Ridge National Laboratory'sのオリジナルデザインはPWRでこれを担当したウェスティングハウスは成功した。S1Wというコード名のSはサブマリン、2は第二世代、Wはウエスティングハウスの意味である。中性子 の減速と冷却を循環する150気圧に加圧した一次冷却水で行い、この加圧水の熱を使って逆U字型蒸気発生器(ロシアはケトル横型)で二次冷却水を気化してタービンを回す仕組み であった。一次冷却水系統と二次冷却水系統が分離されているため、2次系にある蒸気タービンや復水器といった補機類は放射線の危険から離れた位置で点検整 備が可能となる。一次系から2次系へと熱を伝える蒸気発生器は逆U字型の脆弱な細管を使うため損傷を受けやすく、一次冷却水損失を起こすため、実証された標準設計が 採用された。

沸騰水炉(BWR)の開発がPWRより遅れた理由は一次冷却水を70気圧程度で沸騰させるため、沸騰水のボイド効果(泡効果)が反応度に影響をあたえて制 御できなくなるのではと恐れられていたためといわれる。アルゴンヌ研究所のSamuel Untermyer IIが一連のBORAX実験をして、伝熱と核物理上問題ないと分かった。そしてアルゴンヌ研(ANL)が中心となってアイダホの実験場で段階的に大型化し て 確かめた。この時、SL-1というBWRの制御棒を引き抜きすぎて暴走し、圧力容器破裂して空にとぶ事故が発生し、運転員が死亡し放射能汚染を引き起こし たこともあった。このときは格納容器はなかった。事故は当時は公表されなかった。この事故は原子炉事故の一つの例としてしっかり貢献している。初期のころ は濃縮ウラン金属をステンレス板にクラッドしたものが使われた。爆発した炉心のビデオを見るとぐしゃぐしゃになった板切れが見える。Sam Untermyerはもともとオークリッジ国立研(ORNL)の研究者で、Weibergの配下であった。Daiels Pile(のちの、ペブルベッド型ヘリウムガス炉)グループに所属し、リコーバーのPWR開発計画に引きぬかれ、ノーチラスPWR用のキャンドポンプの開 発、ジルカロイ被覆管材料の開発などをしたという。ANLのアイダホサイトをつかったSW1炉海軍計画がひとだんらくしてから、GEが引きぬいたのであろ うという。

ウエスティングハウスに艦用炉と商用原子炉で先行されて焦ったGEはアルゴンヌ研からSamuel Untermyer IIを引き抜き、独自の設計思想にたつBWR技術を完成させることにした。1955年暮れにサンフランシスコの東にあるローレンスリバモア研究所にゆくVallecitos Rd.沿いにバレシトス原子力研究所を作りVBWRを建 設することが社内で決定された。費用は全額社内資金で賄われ、政府の補助金はゼロであった。早速、設計及び工事に着手、1957年8月に臨界、10月に発電に成功した。そして生産された 電力は、電力会社の商用電力網に乗せられ配電された。アルゴンヌのEBWRに後れることわずか1年未満のことであった。いまでも残されている実験施設はベントスタックを乗せるドーム型の建屋で、燃料交換は格納 容器内部でおこなったのだろうか。もしそうならPWRの伝統を受け継ぐ。燃料交換を格納容器蓋経由で行うことはその後のエンジニアリングで採用されたものだろう。

PWRで成功したウェスティングハウスであったが、スリーマイル島事故以降米国で原発の需要がなくなり、経営が苦しくなった。民間部門は売りに出され、東 芝が買い取った。ウェスティングハウスで次期社長を約束されていた人はBabcock & Wilcoxに移籍し、ベクテルの協力でSmall Modular Reactor(SMR)を開発した。しかしこれも売れてはいない。大型圧力容器は米国で作れないから小型にしたことと、停止時の冷却が容易だというのがウリ。海軍向けの原動機部門であるピッツバークにあるBettis Atomic Power Laboratoryはベクテルの子会社 Bechtel Marine Propulsion Corporatioが管理している。

原 子力に戻る
October 19, 2012
Rev. November 13, 2012


トップページへ