ノースウエスト・アース・フォーラム

川上書簡

6. アラカン山脈の向こう

パキスタンの米は炊いてもパサパサしているのはしようがないとしても、黄色っぽく、かすかに異臭がした。窮乏時代の日本が輸入した外米あるいは黄変米のようである。まだ30台前半で食欲も旺盛だった私でも、時にノドをとおらなかった。日本にいる女房にインスタント・ラーメンを小包で送ってもらった。当時日本でも今のようにインスタント・ラーメンは普及していなかった。1袋25円、小包には8個入っていたのだが、郵便配達にはその何倍かとられた。ここでは、郵便配達は請負業みたいなもので、チップで暮らしている。十分払わないと、次は郵便物をどこかへ捨てられてしまう。日本とは国際電話が通じてなかったので、送稿も事務連絡も、東京本社とのやりとりはすべて電報だった。電報を捨てられてしまっては、商売上がったりだから、チップは十分払わないといけない。(普通の郵便も、ポストに投函すると、集配人が切手をはがして売ってしまう恐れがあるので、確実を期するためには、郵便局の窓口まで持っていって、目の前で消印を押してもらわなければならなかった)。

さて、そのインスタント・ラーメン、食べた後残ったスープは麺よりも貴重品で、ご飯にかけて大事に食べた。事務所のトイレで湯を沸かし、食べようとしていると、パキスタン人の若い助手が鼻をくんくん鳴らして近寄ってきた。貴重品を彼に分けてやるわけにはいかない。しかし、心配には及ばなかった。「これはラードだ」といってラーメンの袋に描いてあったブタの絵を見せたら、彼は形相を変えて飛び上がらんばかりにあとずさりした。

ようやく一年余りのパキスタンの任期を終えた。New Dehli に寄って帰ると言ったら、高畠淳氏に、刺し身用の魚を託された。高畠さんは,大蔵省から派遣されてきていた在カラチJETRO(日本貿易振興会)事務所長だった。天井の大きな扇風機が生ぬるいあるいは熱い空気をかき混ぜているだけの Metropole Hotel の2階で、朝日新聞支局と事務所が隣り合わせだった。その高畠さんが、New Dehli のJETRO の同僚に刺し身を届けたい、という。高畠さんは、むろんわが朝日新聞 New DEHLI 特派員用にも魚の氷詰めの大きな箱を作ってくれた。これを持ってNEW DEHLI 支局にたどり着いた。ニューデリー特派員だった先輩には大変喜ばれた。ニューデリーの「食糧事情」はカラチと似たりよったりだった。ただ、内陸部に位置するここでは海の魚は手に入らなかった。この点に限ってはアラビア海に面した港町カラチに軍配が上がる。ニューデリーには日本の新聞各社がそろって、ずっと以前から特派員を置いていた(カラチは、日本の新聞記者は私一人。パキスタンに常駐した日本人特派員第一号だった)。そして、ニューデリーでは海の魚を手に入れるために、当番を決めて交代で、インド亜大陸のずっと南部の海岸都市マドラス(現チェンナイ)へ3ヶ月に1回空路買出しに出かけ、魚を手に入れていた。新聞記者というのは、世界どこにいようが他社はライバルなのだが、ニューデリーの魚の買出しは呉越同舟だったようだ。

ニューデリーには、日本食堂やレストランがあるとは期待していなかったが、それでも中華料理屋ぐらいはあるかと漠然と考えていたのだが、それもないという。「サクラ」というのがあるときいて行ってみた。ここの食べ物は、むろん日本風とは似ても似つかない、かといって中華風でもない。今、日本では ethnic とか称して国籍不明の料理が大流行だが、それにも遠く及ばなかった。聞けば、「サクラ」はもとは「桜」だったのそうだ、、それが日本食堂だったか、中華食堂だったかは別として。今私が通っている信州茅野には、「揚子江」という朝鮮焼肉屋がある。韓国や中国のことは良く知っている日本だってこれだ。40年近く前のインドのことで、こんなことをあげつらうのは、われながらバカげている)。

で、ニューデリーには中華料理屋もなかった。その点ではカラチより悪い。風評では、理由は中印紛争(1962年)だという。中国人が逃げ出したのか、中華料理屋が閉店したのか。中印紛争はヒマラヤ山脈を含めて長い長い国境線を持つ両国の国境の戦争だった。私にはそれが原因とも思えなかった。もともとインドには中国人があまりいないのだ。世界中に進出して、どこにでも中華料理屋を開くのが得意な、さしもの華僑もインドだけは敬遠したのだろう、というのが私の勝手な想像である。「アラカン山脈の向こうに謙譲の美徳なし」と日本では言う。ビルマとインドの間にある山脈のことだ。その向こうとは、インドのことである(あるいは中東、ヨーロッパも含まれるかもしれない)。つまり、「謙譲の美徳」は中国をはじめ東南アジア一円の儒教圏でのみ通用する、ということだ。これと、インドに中国人があまりいないことを結びつけるのは、牽強付会が過ぎるだろうか。

ニューデリー支局で、先輩と雑談していたら、そこへ東京本社のデスクから「インドが初の核実験をした。すぐパキスタンの反応を送稿せよ」と電話で命令がきた。でも、ボクは今帰任の途中ですよ。パキスタンへは電話も通じないから、取材もできない。目の前で、先輩が本記を書き始めている。だが、考えてみたら、ここ数年いつ実行されるか世界的にも注目されていたインドの核実験を、宿敵パキスタンの側から書くのは、ほんの数日前までパキスタン特派員だった自分以外にいないではないか、と思い直し、作文して送った。新聞記者の世界では、取材しないで記事を書くことを、軽蔑の意味をこめて作文という。帰国モードを再びパキスタンモードに切り替えて。刑期明けの囚人が監獄の門から引きずり戻されたようなものだ。

ニューデリー滞在はほんの数日だった。ここからアグーラ(タジ・マハルのある古都),ベナレス、カルカッタ(現コルコタ)と巡った。それから、バングラデシュへ飛んだ。

(続く)

インドについてへ

March 9, 2010


トップページへ