総合知学会

2010

巻頭言

第一稿

 

中国の勃興とともに日本は元気がない。世界の工場としての日本のかっての栄光は消え去り、自信喪失の気配は色濃い。第二次大戦後、世界の工場としての米国は日本にその座を譲り渡し、金融、インターネットで頑張っている。日本は何をして生き残りをするのか?

一つのヒントは我々は生き物であると再認識することからはじめることだろう。生命が生まれ、悠久の時を経て我々は進化してきた。肉体としての進化を拒否した我々であるが、いまだに社会を進化させていることには間違いがない。

ダーウィンは「生き残る種というのは、最も強いものでもなければ、最も知的なものでもない。最も変化に適応できる種が生き残るのだ」といっている。これから推論すれば政治、経済、社会をつねに最も変化に適応できるようにするということになる。

宇宙の進化、生命の進化現象は秩序とカオスの相転移点上(カオスの縁)にある現象と理解できる。 秩序領域が広いときはピラミッド構造の中央集権体制がよく機能する。一見頑健に見えるが、変化に弱い。ピラミッド頂部にある要の素子が故障すればカタストロフィーが発生する。国でいえば北朝鮮のような独裁国がこれに該当する。

ヨーロッパがアジアに対し覇権をもてたのは自律分散社会だったからではなかろうか。一方アジアは広大な面積を支配する中国の強力な中央集権の波及効果で自沈した。例をあげれば、明の永楽帝はコロンブスに先立ち、鄭和に南海大遠征を命じたが、その子は海禁に走って鄭和の航海記も大型船建造技術も歴史の闇に葬り去った。秀吉や家康もこの影響を受け、鎖国した。

自律分散制御社会であった当時のヨーロッパですら、突拍子もない考えをもったジェノバ人クリストバールにヨーロッパのどの王も聞く耳をもたなかった。しかし回教徒の支配から独立するレコンキスタに勝利した直後のアラゴンとカスティーリア同君連合のイザベラとフェルナンドは違っていた。サンタフェの幕舎でクリストバールと契約を結び、新世界発見の端緒を開いたのだ。

日本史をみても南北朝時代や戦国時代は都市の商人が力を蓄えた自律分散社会で、徳川時代は武士の中央集権に逆戻りした。同じアナロジーで、通産省ががんばれば頑張る程、多量生産型産業に人と資金が無駄に投入され、農水省が頑張る程農業は疲弊し、また政治家が産業を興して成長を目指すというほど日本は沈みむように見える。おなじくNHKが大田区の部品メーカーの職人芸を賞賛すればするほど、日本は沈む。

自然界は自律分散で律せられている。世界のスズメが誰かの指令で動くことはない。いわしのむれ、ムクドリの群れ、ガンの群れ、こうもりの群れがあたかも統一の意思の下に行動しているように見えるが、自律分散制御の結果であろう。彼らは隣の鳥をみて本能に従って判断して動いているだけなのだ。この本能が曲者で、自然淘汰で種が生き残る最適の判断基準をDNA経由で個の鳥に組み込んでいるというわけだ。人間社会もそれぞれの個、団体の行動規範をうまく定めれば全体の社会がいまく機能する。この行動規範をどう定めるかがその社会の成功と失敗に直結するのではと私は考えている。

日本の行動規範は中央集権型だから個は自ら判断して行動することは消極的で、どうしても権威とか権力を持っていると思われる個とか集団の判断に依存しがちだ。権威や権力に従わなければ規律違反として組織から除外される。しかし中国などと競争するとき、この方式を採用したのでは必ず負けることが分かっている。彼らが持ち得ないやり方が自律分散であるが、これは教育からはじめなければ稼動しない。まず入学試験は知っている知識がどのくらいあるかではなく、問題を分析し、解決策をどのくらい考えられるかという点で評価するということからはじめなければならない。ところが出題者である大学の教官がそのような問題を作れない。まず先生から入れ替えねばならないという大変な作業だと思う。

インターネットは自律分散制御で大成功した。これからは社会も政治も自律分散に向かっていると理解できる。日本は中央集権で成果が上がる多量生産で一時、世界一になった。しかし中央集中制御のご本家と目される中国にその座を譲ずるのなら、異なる原理で戦わなければ負ける戦を強いられている。日本の回生の道は自律分散社会の構築かもしれない。いずれにせよ科挙の時代は終わったのだ。

以上字数制限に入らずボツにした原稿である。

July 26, 2010


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