21世紀はPMの時代

人材を生かす手法

グリーンウッド

世界の潮流

変革を常態化する

考える習慣から正しい判断

行政の改革にも有効

日本工業新聞3月28日プロジェクトマネジメント特集号記事の紹介をします。

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紙面

閉塞感のある日本から世界を見ると米国に限らずアジアでも、ビジネスリーダーには米国流のMBA取得者が多いことに気がつく。日本の教育機関は伝統的にビジネスを教育の対象にはしてこなかった。社会に出て自ずから身につけるべきこととされていた。しかし、大企業と言えども気長に若者を育てる余裕は無くなってしまった。これから、教育制度を含め大改革が必要だが、待ってはいられない。ビジネス先進国米国でも人材教育を全てMBAコースで満たしているわけではない。個人は、人材マーケットでの市場価値を高めようと、職業人団体に所属し、学び、自らに磨きをかける姿勢が強い。職業人団体とは弁護士、公認会計士、医師等の団体である。なかでも米国のPMI(プロジェクトマネジマント・インスティチュート)という団体は5万人に達する会員を擁しており、独自のプロジェクトマネジメントの資格制度を制定して、世界のデファクトスタンダードになっている。ヨーロッパでは米国の覇権は好ましくないと各国のPM協会が集まってIPMA(インターナショナル・プロジェクトマネジメント・アソシエーション)を結成し、世界標準を策定し、日本にも参加を求めている。

日本には技術士資格のなかにプロジェクトマネジメントという資格があるが、技術者がそのキャリアをマネジメントにまで拡大した能力資格とされ、万人に開かれた資格ではない。またマネジメントができる人材は企業内で独自に育てるべきとする過去の考え方から、企業はこの資格を評価してこなかった。一部公共事業に携わる人材の必須資格とされた程度である。危機感を持った通産省、エンジニアリング振興協会、その傘下のJPMF(ジャパン・プロジェクトマネジメント・フォーラム)が協力して日本独自のPM資格制度を現在検討中である。

よくプロジェクトマネジメント手法は原爆やミサイル開発のために米軍が開発し、戦後の産業界が自らの建設プロジェクトに適用してきたと説明される。たしかにコンピュータを使った数理管理手法などはそうである。しかし欧米では過去10年間でプロジェクトを再定義した。米国のPMIは人が集まって何かをするとき、一回限りの、他にないユニークな活動をプロジェクト、きまりきったことを継続して行うことをオペレーションと定義している。新定義に従えば、プロジェクトマネジマントとは全ての産業分野の新規プロジェクトのマネジメントをカバーしていることがわかる。「プロジェクトは人類が発生した時からあった」と英国のプロジェクトマネジメント規格(BS6079)に記述されている。これも新定義による解釈である。

日本を現在の窮状から救出する方策としてベンチャー企業育成がさけばれている。そもそもベンチャーは今まで存在しなかった製品なり、サービスを提供するプロジェクトを企業として立ち上げようとするものである。ここで必要とされる人材はプロジェクトマネジマントができる人材でなくてはならないことは明らかである。新規事業を立ち上げるためにわざわざベンチャー企業を立ち上げずとも既存企業内にプロジェクトマネジマントを導入すれば、同じことができる。既存企業が改革に失敗して決断を先送りしているのは新規プロジェクトを在来のオペレーションの仕組みで取り組もうとしたためとも考えられる。オペレーション環境下で育った人は安定を求め、変化を避けたがる。しかしプロジェクトマネジマントに一旦なじめば、オペレーションなどは、退屈で人間性を阻害するものだとすぐ気がつく。変革を常態化するための手法ともいわれるプロジェクトマネジメントは人々に考えることを習慣つけ、行動する前に徹底的に考え、模擬し、正しい判断をするように仕向ける。また問題が顕在化すれば途中で止めることができるので、気軽に新しいことに取り組むことができる。オペレーションは人々を思考停止に導く。これでは勝負はついたも同然である。

米国では大企業の組織も管理手法もプロジェクトマネジメント流に行おうとして、EPM(エンタープライズ・プロジェクトマネジメント)が提唱されている。ベンチャー企業に追い詰められた大企業、市場の寡占状況を作り出すために合併を重ねる戦略を取る超大企業ですら社内の活性化のためにエンタープライズレベルのプロジェクトマネジメントが必要だとの認識があるためであろう。各企業のプロジェクトマネジメント導入度をその成熟度として計量する試みもなされている。

このように、かってない好況に沸く米国でプロジェクトマネジメントの重要性が熱っぽく語られるのに、日本では関心が低いのはなぜであろうか。一つにはプロジェクトという外来語がかって日本の高度成長を達成した製造プラント建設プロジェクトと強く結びつき、プロジェクトというと大きな資本投下を伴うキャピタル・プロジェクトしか人々の頭に浮かばないためであろう。そのようなものは今日本ではもう必要ない。もう一つは流動化社会と失業というイメージを伴うからではなかろうか。プロジェクトが完成したら失業するのではという危惧である。

今、日本では皆が「オペレーションは永遠のイメージを伴うが、これは錯覚である」と悟りつつあるのではなかろうか。すべてのものには寿命があるのである。それなら、いつかだめになるオペレーションにしがみつくより、前向きにプロジェクトに飛び込んだほうが賢いという発想はだれにでもすぐわかる。オペレーション環境下で安逸になれた旧人類も社会が流動化してゆくにしたがい、始めは恐る恐る、そしてついにはプロジェクトに喜びを発見するようになるだろう。

プロジェクトは今までどこにもない新しいことを始めようというわけであるから、当然どうなるかわからないという不確実さ、すなわち、リスクを伴う。敢闘精神だけで突っ走れば、思わぬ落とし穴が待っている。そこでプロジェクトを幾つかのフェーズに分割し、リスクを減らすべく準備活動をする。ある程度リスクが見え、分析と対策ができたところで中断するか、継続するかを決定するという手法をとる。この決定過程に透明性を持たせることは、企業の場合は出資者に対し、また官庁の場合は納税者に対し責任をとる意味で重要となる。透明性は運命共同体内部の利益とか当事者の面子を守る動機だけて事が決せられないようにする仕掛けである。日本では特別に育成されたエリートが国のため、あるいは会社のために正しい判断をするように期待されたが、そのようなことは不可能であることが今や証明されてしまった。役人や職業人に倫理観を求めるのは無駄というわけではないが、やはり透明性という仕掛けしかないということであろう。

透明性と説明責任が日本では混同されているが、説明責任の原語であるアカウンタビリティーはプロジェクトを担当する人がその担当部門を完成させる指揮・実施能力を持っているという意味を持つ。動員できるリソースでアカウンタブルなレベルまでプロジェクトを分割し、アカウンタブルな人に任せるということが重要となる。入手できるリソースに限りがある場合は社外または組織外にそれを求める。これが真のアウトソーシングである。プロジェクトマネジャーは傘下に入った要員の人事考課まで掌握する。日本の労働法では禁じ手となっているわけであるが、日本の法体系の方が時代遅れであるといわざるを得ない。このようにして遺伝子を組替えるように組織の枠に囚われずに最適な人材を得てプロジェクトを編成し、プロジェクトマネジャーが権限と責任を負ってプロジェクトを指揮することができるようになる。

従来、プロジェクトマネジメントはコスト、スケジュール、品質維持のための狭いマネジメント手法と誤解されてきたが、新定義のプロジェクトマネジメントは産業は言うに及ばず、行政の改革にも有効な手法であるというのが日本を除く世界の常識となっている。

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