第2章 1962年

オレフィンプラント熱交換器設計

人間コンピュータ

 

 

当時の日本のオレフィンプラント・マーケット事情

1960年代は石油化学の勃興期で日本中でオレフィンプラントが建設中であった。第1世代はマンハッタン計画にも参画したエンジニアリング会社、ストーンウエブスター社のライセンス技術で一巡したのち、第2世代は30万トン規模のスチームクラッキング炉を提供できたルマス社のライセンス技術が全盛時代を迎えていた。いち早く第1世代を手がけたわが社と競争企業のN社は無邪気にもストーンウエブスター社以外のオレフィンプラントは手がけませんという契約書にサインしていた。漁夫の利を得たのは第3のエンジニアリング企業であったTエンジニアリングであった。以後、ルマス法が競争力ある時代は日本のオレフィンプラントはTエンジニアリングの独占となる。しかしおかしなことに分解炉の詳細設計と建設はルマス社の火熱炉部門とわが社の火熱炉部門の排他的契約が存在したため、以後の日本の分解炉建設の独占的地位を築くという捩れ現象もみられた。火熱部はまるで独立王国のようであった。

 

カーンのテキストブック片手に人海戦術による設計

このような事情の下でわれわれ新人は第1世代のオレフィンプラントのTEMA型多管式熱交換器群の最後の設計に参画するという体験をした。TEMA型とは米国のThe Tubular Exchanger Manufacturers Association, Inc.が定めた規格である。1プラントには80種あまりの異なる熱交換器があった。当時は電子計算機がまだない時代である。設計ツールは1950年にドナルド・Q・カーンが書いた”プロセス・ヒート・トランスファー”という本と計算尺とソロバンだけであった。まだ貧しい時代で、このテキストブックすら海賊版であったと記憶している。長さ1メートルの計算尺やタイガーの手回し計算機 もあったが、これらは先輩が占有していて貸してくれない。7人集められて、ヨーイドンで設計計算をするのだが、個人差もあったが、平均して午前中に1本、午後1本しか設計できない。適当に熱交換器の寸法と構造を決め、 ヌッセルト数やレイノズル数、プランドル数という無次元数がごてごて出てくる七面倒くさい経験式を使って管内外の伝熱係数と圧力損失を計算し、与えられた汚れ係数を加味して仮定した熱交換器の寸法と構造で要求された熱交換が許容圧力損失内で可能かチェックし、だめならやり直しという作業である。寸法を大きく、ゆるゆるにすれば、関門は通過するのだが、工事金は請負制度のため、ぎりぎりの設計をしないと利益はでないというジレンマがある。土曜日は半ドンであったので、80基設計するのに丁度1週間かかった。

最後に森所プロジェクトマネジャーがスケジュールシートという全熱交換器の一覧表を見ながら質問をだし、われわれが逐一回答して結局、承認された。この設計が問題を起こしたとはその後聞いていないので多分良かったのだろう。

後年、低温工学の学会出席のためカルフォルニア大学ロスアンゼルス校を訪れたとき、ボエルター・ホールというレンガ造りの建物を見た。どこかで聞いた名前だと思った 。もしかしてあの単相強制対流の無次元熱伝達式Dittus-Boelterの式の名前の先生を記念したホールではないかと推察したがどうだろう。

このような奴隷船的経験は化学部門では以後経験していない。オレフィンプラント分離精製部門のマーケットを失ったからである。石油精製部門に入った仲間は電子計算機が導入され、かつ米国から設計プログラムが導入されるまでこの状態が継続したはずである。結果、奴隷的労働をしないで幸運だったと思っている。

エンジニアを奴隷的に使う必要性があったためではないが、いわゆるわが社における団塊の世代は私が入社した翌年入社組みが最大世代となった。コンピュータが普及してもエンジニアリング効率が上がったわけではなく、より高い精度で設計できるようになっただけである。

December 30, 2004

Rev. February 16, 2006

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