小学校時代

 

 

鍋屋田小学校に入学した時、先生が校舎に入る前に奉安殿に向かって敬礼しなさいという。ところが下駄箱のある入り口から、先生の指し示す方角にくさいトイレがあった。どうも釈然としないものを感じたが、3ヶ月もしないうちに敗戦となり、トイレに頭を下げる必要がなくなった。それからもらったばかりの教科書を墨で塗りつぶす教育を受けたわけであるが、世の中の仕組みを垣間見るには絶好の教育法であったのではないかと思っている。「およそ権威などくそ喰らえ」というわけである。

父祖の地、高田の庄に最終的に落ち着くことになり、小学校も古牧小学校に転向した。担任は宮下典子先生だった。市街地から田園地帯に移って友人もおらず、自然、本を読むことと物を作る楽しみを覚えた。初めは紙でジープなど作っていたが、まだ車輪はまだノリで固定したままであった。たまたま訪れて来たどこかのおばさんにこのジープのできばえをほめられたのも、ますます工作にのめりこむインセンティブになったのかもしれない。腕があがるにつれて次第に動かせるものに取り組んだ。トラス構造のクレーンを作って、糸でこれを動かすのだ。お小遣いで、トランスやモーターを買えるようになってからは、センターポールの回りを高速で回るレーシングカーを作った。センターポールのあるブラッシからエネルギー供給を受けるのでパワーもあり、バッテリーが上がることもない傑作だった。だれかに作り方を教わったのではなく 、勝手に工夫して作ってしまった。ランプを直列や並列に結線して明るさが変わることなども学んだのはこのころかな。

小学校低学年の頃は蒸気機関車の機関手になりたいなどと夢見ていたが、高学年になる頃には天文学者になりたいと考えるようになった。親父が星座の説明をしてくれたためか、読んだ本の影響だろう。6年1組担任の久保田眞行先生が当直の日に学校に数人の生徒と一緒に泊り込んでプレアデス星団(すばる)と月の食を観測しようと提案してくれたことがある。夜半までコタツで四方山話をしてがんばったが 、食のおこる午前3時ころはぐっすり寝込んでしまった。翌朝先生が「君たちがあまりすやすや寝ているので起こせなかったよ」というのを聞き、うらめしかったことを思い出す。 先生はしっかりと観察しているのだ。

昭和26年卒業時のクラスは3つである。2009年時点で2人の先生は健在であり、当時の校歌も今も歌い継がれているという。

秀麗西にそびえたつ

三山永久(とわ)に鎮まれり

豊かなるかんなひんがしに

四阿(あずまや)ながく裾ひきて

古き伝えの牧の土地

ここに生まれ ここに育つ

ああわが友よ のぞみ高く

共にきたえん若き力を

December 20, 2004

Rev. May 19, 2009

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