平将門の首塚

2008年4月5日、森永先生主催の「アルゴン42普及のための研究討論会」に出席のために学士会館にでかけたおり、大手町のビルの谷間、三井物産の東側の東京都千代田区大手町1-2-1で平将門の首塚をみつけた。

平将門の首塚

この地は武蔵国豊嶋郡芝崎村といって、ここに入植した出雲系の氏族が造ったお宮であるとされる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称したものである。

935年に敗死した平将門の首が京から持ち去られて武蔵国豊嶋郡芝崎村近くに葬られ、将門を慕う者達によって造られた塚があったという。その後、将門の死亡から360余年後の1305年、時宗の真教上人(一遍上人2世)が将門塚を訪れた時、塚は荒れ果て、村には疫病が流行しており、これが将門の祟りだと村人は恐れていた。真教上人は将門に『蓮阿弥陀仏』という法号を追り、塚を修復して、供養したところ疫病が治まった。喜んだ村人たちは上人に近くにある日輪寺にとどまってもらうことにした。真教上人は天台宗だったこの寺を時宗に改宗して、念仏道場とした。1307年に真教上人は将門の法号を石板に刻み、塚の前に建てた。さらにその翌々年の延慶二年には旧・安房神社の社殿を修復し、将門の霊を合祀して神田明神としたことが日輪寺の記録にあるという。同時に日輪寺も『神田山日輪寺』と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となった。

徳川による江戸城大改築で邪魔になった神田神社(神田明神)は1616年に神田駿河台に、日輪寺は1657年浅草芝崎町の現在地に移転させられた。神田明神はその後、江戸城総鎮護神として、幕府の手厚い保護を受け、また市民からも信仰を集めた。

現在大手町の将門首塚に建てられている「南無阿弥陀仏」の石塔婆は、日輪寺に現存する真教上人直筆の石版から取った拓本を元に復元したという。ちなみに坂東市内 にあるの延命院にある将門の胴塚周辺の地名が「神田山(かどやま)」といわれるのはなぜだろう。

朝廷に反逆した将門の首塚が将軍居城の鬼門にあることは幕政に朝廷を関与させない決意をあらわすためにも好都合だったろう。 関東大震災で首塚そのものは倒壊し、周辺跡地に大蔵省が建てられる事となり、大規模な発掘調査が行われた。内部に古墳にある石室ないし石廓とみられるものがあったという。

明治維新後は、将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして明治7年(1874年)には、教部省の指示により神田明神の祭神から外され、 境内の将門神社に遷座されてしまう。

第二次世界大戦終結後は、逆に反天皇制ファシズムの時代的機運から、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。 そして昭和59年には平将門神は再度、神田明神に合祀されている。

このように将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。

当時の朝廷は東国において叛乱を起した平将門を討伐するため、僧寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ、平将門の乱鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた。こうして成田山新勝寺を参拝することは平将門を苦しめる事となるので、神田明神崇敬者は成田山の参詣をしてはならないとされている。

将門は父の領地佐倉で生まれ、反乱を起したときは坂東市の岩井に政庁を置いた。その動線をみると下総台地にそって動いていることがわかる。むかしから住みよいところだったのだろう。岩井市にはいまでも神田という地名が残る。

April 7, 2008

Rev. July 2, 2008


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