松代
大室古墳群
2014/3/27、帰郷した折、
大室古墳群を初訪問した。私が子供の頃はこの古墳群は知られていなかった。古田史学をしって古墳を調べるうちにわが郷里のこの古墳群の存在を知り、ルーツ訪問として訪れた。
五輪大橋を渡ってホワイトリンク手前を左折し、関崎橋を渡って千曲川が奇妙山の尾根の先端を洗う場所に渡る。廃線になった長野電鉄河東線は奇妙山の尾根の
先端にトンネルを穿って走っていた。谷街道から旧大室駅に下る。しばらく大室の集落の狭い道をゆくと高井大室神社の前に出る。高井大室神社は小山の上にあ
る。この小山から古墳群のある奇妙山の懐を望める。
高井大室神社から大室古墳群のある奇妙山の懐を望む
神社前を左折して狭い道をゆくと上越自動車道の高架橋の下をくぐって、大室古墳群の駐車場にでる。ここが古墳群の下端である。博物館は3月31日まで休館
であった。ここから奇妙山の北斜面にそって約500基の古墳があるのだ。盛り土をした盛土墳(前方後円墳など)や土石混交合墳もあるが、八割近くが小石を
積み上げて墳丘とした渡来人墓制である積石塚
で、「合掌形石室」という特殊な埋葬施設となっていることから、他に類例の少ない遺跡とされている。
遠くにホワイウトリンク、中間に高井大室神社のある小山、上越自動車道、手前に古墳2つ
大室古墳群がつくられ始めた5世紀代の日本には、朝鮮半島からやってきた渡来人という人びとがいたことがわかっている。馬具という馬につける道具を出土する古墳がとても多く、大室からも数多く出土している。平安時代の「延喜式」という書物に
は、大室に馬を飼育する牧場があったことが書かれている。馬を飼育する最
先端の技術をもった朝鮮半島からの渡来人たちが、大室で馬の飼育を始めたと考えることができるが、牧場にしては狭い。目前は千曲川があり両側は奇妙山の尾根で囲まれた要害の地である。
246号墳
天井が三角屋根型の石室は日本全国で40基ほどあるが、福島県に1基、山形県に2基以外は長野盆地に集中している。そのうち大室には約25基もあ
る。松本市の針塚古墳や須坂市の八丁鎧塚古墳も積古墳だ。積石塚は、中国大陸のスキタイ人の古墳や北朝鮮と中国との国境付近にも見られる。積石塚は,日本
だけ
にみられるものではない。例えば,朝鮮半島にあった古代国家「高句麗」の首都「扶余(現在,中華人民共和国東北地方集安県)」にも,多くの積石塚が
存在する。また,中央アジアにも存在しており,積石塚は特別珍しいものではなく,極めて一般的な墓である。
中国の史書である『三国志』や『後漢書』などに記されている濊族(わいぞく)は松嫩平原〜朝鮮半島東北部に住んだ種族。
松嫩平原〜朝鮮半島東北部に住んだ種族。濊・貊の呼称や勢力圏は時代によって変遷があって解釈に諸説あり、貊族はB3世紀〜B2世紀に匈奴と漢に圧迫され
て東遷し、朝鮮半島中部にも進出した。濊貊の分派とされる夫餘・高句麗・沃沮・百済などの言語は粛愼系とされるツングース諸語・韓語と大きく異なるとさ
れ、亦た『魏書』で室韋・奚との近似性が指摘されている事などから、濊貊の言語をツングース系とする説の他に、粛愼系を純ツングース種として濊貊をモンゴ
ルとの混合種、モンゴル系とする見解もある。濊貊の分派とされる夫餘・高句麗・沃沮・百済などの言語は粛愼系とされるツングース諸語・韓語と大きく異なる
とされ、亦た『魏書』で室韋・奚との近似性が指摘されている事などから、濊貊の言語をツングース系とする説の他に、粛愼系を純ツングース種として濊貊をモ
ンゴルとの混合種、モンゴル系とする見解もある。
以上考察すると積石塚は濊族の文化なのか?
January 28, 2014
Rev. May 21 2014