善光寺

善光寺の 山号は定額山。真言宗により創建され、のち天台宗に属す。今は無宗派。江戸時代からは大勧進(天台宗の僧寺が貫主を勤め)と大本願(浄土宗の尼寺が上人を出している)が管理している。現在の尼さんは鷹司誓玉(せいぎょ)。本尊は善光寺式一光三尊仏、あるいは善光寺式阿弥陀三尊とよばれ、善光寺如来ともいう。善光寺縁起によれば欽明天皇13年に百済の聖明王が朝廷に献上したものとつたえられ、秘仏とされている。 前立本尊すら秘仏である。6世紀までさかのぼる創建伝説もあるが、出土瓦(かわら)などから7 世紀後半の創建と推定されている。蘇我馬子の娘が尼さんとなって創建されたと伝えられている。

鷹司誓玉は鷹司公爵家の父と徳川家康の血を引く水野家から越し入れた母を持つ。秘仏の本尊は武田信玄が甲府に持ち帰り、秀吉が大阪に持ち去り、家康が甲府に戻し、最終的に善光寺に返されたとされるが誰もみたことはない。鷹司誓玉ですら見たことはないという。

もともと一地方寺院だった善光寺は、平安末期から浄土信仰・聖徳太子信仰・念仏信仰など、さまざまな庶民信仰がまじりあう特異な霊場として人々の信仰をあつめた。こうした善光寺信仰の全国的な広がりの背景には、善光寺聖(ひじり)とよばれる勧進聖の活動があったという。牛にひかれて善光寺参りなどの伝説がある。

長野駅から緩やかな表参道(中央通り)を登ってゆくとやがてに仁王門にたどり着く。この左手が大本願である。定額山の額が掲げられている。

この間距離にして約2キロメートル。昔の距離で十八丁(一丁=109メートル)である。明治時代に長野駅を造る時、長野市のリーダーが長野市を仏都にするグランドデザインをたて、善光寺から十八丁の所に駅を建設したためである。なぜ十八丁なのかというと阿弥陀如来のたてた48願のうち、第18願は「王本願」といわれ、十念を唱えた人は全て救ってくれるという願であったためである。

いわれはともかく、次第にきつくなる坂の傾斜の程度といい、駅から歩くには程よい距離である。参道のところどころに十六丁などと彫った道標が建っている。

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仁王門 (2002年正月)

長い仲見世通りをすすむと巨大な山門に至る。この左手には大勧進がある。

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山門 (2002年正月)

堂舎は頼朝の再建以来十数回もの焼失と再建をくりかえした。江戸前期の1707年(宝永4年)に再建された現在の本堂(国宝)は、棟の平面が T 字形をなす独特の撞木造(しゅもくづくり)である。写真はT字の下辺の正面で間口より奥行きの方が深い。この建造物の構造が可能にした「戒壇めぐり」も印象深い。内々陣右側奥の入り口から階段を降り、瑠璃壇床下の真っ暗な回廊をめぐり、ご本尊の下にかかる極楽の錠前に触れて、秘仏のご本尊と結縁を果たすための道場とされている。

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本堂 (2002年8月)

現在の善光寺参道は本堂が仲見世堂跡地蔵尊付近から現在地に移転竣工後の1714年に完成した。本堂前の敷石は西長野の腰村の西光寺住職、単求の寄進により敷設。仁王門から山門までは江戸中橋上槙町(現日本橋三丁目)の石屋香庄(大竹屋平兵衛)の寄進であった。西長野郷路山産の安山岩製の7777枚である。いまでも7000枚そのまま残っている。平兵衛は伊勢出身で江戸で財を成したが、長男が放蕩で家へ寄り付かなかった。ある夜、盗賊が入ったので突き殺すと我が子であったという。平兵衛は世の無常を感じ、家を後継者に譲り、巡礼の旅の途中善光寺に立ち寄り、敷石を寄進した。平兵衛の子孫はその後も敷石の補修を継続したそうである。平兵衛の墓は今も善光寺にある。

7年に一回、秘仏の前立本尊の御開帳がある。平成15年4月6日から5月末日まで。詳細はhttp://www.zenkoji.jp/

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御開帳の御柱 2003/4/29携帯撮影送信

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御開帳記念花の絨毯

グリーンウッド氏は2002年に帰郷したおり、初めての雪中初詣をした。「おびんずるさん」の腰をさすって、腰痛の快癒祈願とした。

御開帳に参詣したら、ちょうど花の季節、城山の桜の名所にある明治38年創業の老舗の懐石料理屋、萬佳(まんかてい)で花と善光寺平の風景を愛でながら食事をするのも一興。ここはその昔、善光寺参りの行き帰りに旅人が仮寝したといわれる「仮寝ヶ岡」またの名を「雁音ヶ岡」といい、善光寺からタクシーで5分。(Restaurant Serial No.176)

善光寺の仲見世には観光客向けの手打ち蕎麦屋が沢山あるが、地元の人が行く店は大門町の元屋である。(Restaurant Serial No.154)善光寺の大本願の西側、西之門町には寛永14年創業の造り酒屋の吉野家がレストラン「さくら」を経営している。(Restaurant Serial No.204)洋食好みの方には大門町のレストラン五明館がおすすめ。(Restaurant Serial No.156)

大門町には皇室御用達の藤屋旅館経営のコーフィーショップもあるがなにせ大正時代のぼろ屋である。新しくて、コージーな場所をお求めの方には千歳町の栗の木テラスがおすすめ。(Cafe Serial No.158)

2002/1/6

Rev. September 13, 2007


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