鎌倉プロバスクラブ卓話

不受布施(ふじゅふせ)

弓狩康三・荻原定秀

2008/3/11

鎌倉プリンスホテル

今朝ここに来る江ノ電の中で荻原さんも不受布施派であること知り驚きました。全国で4,000人しかいない宗派ですので、同じプロバスの会員に2名もいるというのはかなりまれなことであります。その教義の是非はわかりませんが、不受布施派とは 法華経を信じない者から施しを受けず、日蓮宗以外の僧侶に施しをしないという教義をもった教団であります。

秀吉の母大政所の法要に出仕問題に端を発し、幕府によりキリスト教とともに禁教となり、明治に公許となるまで地下秘密教団として信仰を守り抜いた宗派です。本山は岡山県にあり、信者も岡山県に多いようです。

私は養子で元は荒木といいます。秀吉に滅ぼされた荒木摂津守の後裔です。親戚に伊丹というのがいますが、これも秀吉に敗れたアンチ秀吉の一族で、どうもみな不受布施派になったようです。(弓狩)


お釈迦様が説いた戒律の一つに六波羅蜜というのがあります。 六つの波羅蜜(para-mita、彼岸の行の実践)という意味で布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧がそれに該当します。布施がその一つです。

秀吉が戦争で大勢殺しておいて法要を営むとはと批判したわけで、政治家にとって宗教は目の上のたんこぶにもなる厄介なものです。そんなわけで禁教となったわけです。

家康は檀家制度を作って人々を特定の宗派に固定して、信教の自由をみとめないという政策をとりました。いずれにしましても、二人が不受布施派であったということは奇遇としか言いようがありません。(荻原)

鎌倉プロバスクラブへ


亀ヶ谷坂切通に薬王寺という日蓮宗のお寺がある。かっては不受布施を唱えた広島の本山国前寺の住職だった日達上人が寺を追われてここにきてこの寺を興隆させ、徳川ゆかりの寺になった。しかし慶応3年大政奉還、明治元年神仏混淆を分離して尊王攘夷論が台頭し、これが一変して排仏毀釈となった。寺院の惨情は目に余るものがあった。大正期にようやく復興したという。

司馬遼太郎は不受布施には必ずしも賛同していないようだ。

March 18, 2008

Rev. June 3, 2009


トップページへ