シリアル番号 | 927 |
書名 |
本朝武家大系図上 |
著者 |
不明 |
出版社 |
木版和綴じ本 |
ジャンル |
歴史 |
発行日 |
江戸時代? |
購入日 |
2008/2/9 |
評価 |
良 |
西沢重篤氏より借用。
旧三浦中学(現三浦高校)は1930年には三浦郡浦賀町の橋家が学校経営の主体となっていた。西沢氏の今は亡き義父、高橋恭一氏は1936年にはこの学校の理事と校長を兼務し、終戦時は大政翼賛会の代議士であった人である。小泉元首相の親爺さんは戦後氏の地盤を引継いだのだという。 恭一氏が集めた古文書は大部分地元の図書館に寄贈されたが、この和綴じ本は図書館から戻されたものだという。昭和12年に制定された校章は笹竜胆(ささりんどう)に中学校の「中」の字を入れたもの 。笹竜胆は三浦の領地を与えられ、そして支えた清和源氏のシンボルであり、理事長高橋家の家紋でもある。
敗戦までの三浦中学の校歌は
1.義気に富みたる三浦の武士が
起りし此庭(ここ)の学びの庭に
いそしむ友の力はやがて
輝く御代(みよ)の光を添えむ
2.忠勇無比なる大介公が
昔のあとを偲(しの)ぴつふみつ
きたふる友の心はまさに
移り行く世の鑑(かがみ)とならむ
3.君のみことば きもにえりこみ
人の行く道たがふことなく
ちかへる友の望みはつねに
日本男子(やまとおのこ)の誉れをあげむ
というものであったという。
ここで大介公とは三浦大介義明公のことである。三浦一族のはじまりは、桓武平氏の流れをくむ村岡為通である。為通は源頼義に従って前九年の役に参加し、その功績が認められて三浦半島を与えられ、三浦氏を名乗るようになった。為通は三浦半島のほぼ中央にある衣笠に城を築いた。為通の子為継は源義家に従って後三年の役で活躍し、またその子義継は息子の義明と共に源義朝を助けて伊勢神宮領の大庭(藤沢市)に進入するなど活躍した。三浦大介義明公は、三浦氏の勢力を大きくした。弟、義行を津久井に、為清を芦名に配し、長男の義宗を鎌倉の杉本に、二男義澄を大矢部、三男義久を太田和、四男義春を鴨居、五男義季を長井、六男重行を森戸、義連を佐原、また孫の義盛を和田、有綱を山口、友澄を三戸に置いて三浦半島を固め、同時に半島の開発、文化の発展に貢献した。
源氏とは深くかかわった三浦氏は、源頼朝の挙兵に応じて石橋山の合戦に駆けつけようとしたが、酒匂川の増水で石橋山にたどりつけず、衣笠城に引き返した。間もなく平氏軍・畠山重忠らの追撃を受け、衣笠城で反抗したが、利あらずとみた義明公は一族を城から脱出させ、一人衣笠城に留まって、悲壮な最後をとげた。脱出した三浦一族は、その後、源頼朝と合流して旗揚げをバックアップ、幕府成立後においても重要な地位を占めたのである。
幕山登山の折、雪の山中で自鑑水(自害水)という小さな水溜まりを見つけたことがある。看板に1180年8月23日 、石橋山の合戦に破れ、土肥実平の先導により落ちのびてきた源頼朝が、水に映った己が姿に失望し、自害せんとするを実平がおしとどめたところと書いてあった。
本書は木版摺りを和綴じにしたもの。虫くい跡がある古文書。
本朝武家大系図上
内容は;
天神七代
地神五代
清和源氏系図:源頼義ー源義家(鎮守府将軍八幡太郎)ー源義親ー源為義ー源義朝(左馬守太政大臣)ー源頼朝、義経、木曽義仲、足利尊氏はこの系統
同源家 斯波・渋川・石堂・一色・加子・石橋等系図
源家 新田系図:義貞、家康はこの系統
源家 小笠原・南部系図
源家 同小笠原・阿波・一宮系図
源家 山名系図
源家 里見系図
源家 仁木・細川・荒川系図
源家 岩松・畠山系図
源家 桃井系図
源家 吉良・今川系図
源家 吉見系図
源家 佐竹・武田系図:甲斐武田一族はこの系統
村上源氏 赤松家系図
源家 小田源氏系図
平家 清盛系図
平家 北条家系図:義時、政子、時房はこの系統
平家 千葉上総系図:千葉常胤、上総広常はこの系統
平家 三浦系図
平家 フ久井系図
平家 芦名系図
平家 ヲカトキ系図
平家 癘{系図
平家 大多和系図
平家 多々良系図
平家 長系図
平家 佐原系図
平家 比多系図 同藤倉
平家 会津系図
Rev. March 9, 2008