小話集

シリアル番号 5

書名

商社マンのうちあけ話ー船をかついで世界を駆ける

著者

細木正志

小話タイトル

K.T君のこと

私の長野高校時代の同期生にK.T君という男がおります。身長180センチの長身で体格に恵まれ高校時代は県下に鳴り響いた強いバスケット部の代表選手でした。青白き私などは話も出来ない高嶺の花ともいえる典型的な体育会系の男でした。その男が60歳も過ぎた頃の同窓会で突然寄ってきて「君の『頑張らない生活』を読んだ。これだ、と感銘した。君と話がしたい」と声をかけてきました。そしてその後5、6回会いました。私も心筋梗塞を経験した直後でしたので『頑張らない生活』には私なりのバックグラウンドがありましたので通じるものがあってお互いに意気投合したものです。

彼は共立女子大の学生と同じ旅行(奥さん同伴でしたが)で知り合いになり交友が始まり遂には新宿御苑の散策を実現したと、それは嬉しそうに楽しそうに語ってくれたこともありました。実は私も長野高校の100年祭の後志賀高原に一人旅をし、観光バスで上智大の女子学生と知り合いになり世に言う「メル友」という関係を継続中でしたので「お互い、生きていれば人生は美しい、意気に感じよう!」なんて報告しあったものです。こんな話、滅多な人に話せませんからね。彼は住友金属(株)で海外出張も多い企業戦士として活躍した後、住金の子会社の社長として数年勤め、健康上の理由で退任しその時は顧問でありました。健康上の問題に関わる経緯は委細以下の文章にまとめられていますので、そのまま転記いたします。彼の所属していたゴルフ場の会誌「総武」(平成12年1月号)に投稿記載されたものです。

胃袋を全部とられる話        K.T

私は、平成8年10月癌を告知された。胃癌だと言う。胃の噴門部(上部)に発生している為全部摘出する事になった。手術の危険率は数%だという。お目出度い新年早々のテーマに、そぐわないきらいはあるが、会員各位の健康第一のご参考に、敢えて癌闘病顛末を記してみたい。

定期健康診断

30数年来毎年7月に定期健診を受けてきた。判定は常にオールAの「異常なし」である。健康だけは人後に落ちず自信に満ち溢れていた。検査項目は@循環器系A胃腸管系等の11項目で、約2時間仕事だ。結果は1ヶ月後の8月に出た。総合判定所見に「胃潰瘍の疑い 再検査」とあった。体調は全く問題ない。又バリウムを飲むのは一寸しんどいなと、思いつつ計画通り、ニュージーランド周遊の旅に出た。

ニュージーランド周遊

ここ10数年来毎夏「見知らぬ所でジョギングする」事を楽しみにして来た。今回は南半球の島国、8日間の旅だ。9月のオークランドは日本の春の陽気で、広大な自然に人は少なく、走る好条件が揃っている。過密スケジュールの中早朝クイーン通り、ワイテマタ湖中心に走った。冷気を含んだ朝霧の中、外国の見知らぬ土地を一人で走る醍醐味は、ゴルフのパーとバーディーの連発に匹敵する、と言ったら笑われるかもしれない。旅行中2〜3度胃の再検が気に掛ったが、30数年間何も問題なく来た。走った後のビールは何杯も飲めるし、だいたい自覚症状が何もない。大した事はないと思いつつ、羊や牛の放牧されている大自然を堪能しながら、思い切り心を奔放に解放させ異国での孤独を楽しんだ。

胃の再検査

余談はこの位にして、話を気掛かりな本題に戻そう。帰国の翌日、9月9日胃カメラ検査を受けた。この結果を判定した主治医から、11日に信濃町の大学病院へ行き、精密検査を受けるよう指示された。何だか雲行きがおかしくなって来た。全く体調に異常はない。夕方10数年来のジョギングに出かけた。(一回10Km・月10回合計100Kmを目標に達成率70%の実績だ。)走り慣れた近くの公園の池を2週ほどして帰宅した。心地良い汗を湯舟で流した後のビールは格別だ。ウイスキーの水割りとブランディーで仕上げをして眠りに付いた。9月11日朝早く病院に行った。こんな大きな病院へ当事者として来たのは初めてである。なんでも一日の通院患者は、3千人くらい居ると言う。2時間程待って担当医K先生に診断してもらう。予め主治医S先生からの話が通っていた模様で、決断は早かった。『即時入院』だという。そんな馬鹿な事はない。信じられない。だって胃が変だという自覚症状が何もないのだから。これは何かの間違いだ。と思いつつ強烈な動揺を理性で強く抑えながら指示通り、入院手続きを行った。入院ベットに空きがなく、最短で9月25日入院と決定した。入院までの2週間、何事もなく通常の会社生活を坦々と送った。9月21日(土)は、毎週恒例のシングルプレイヤーの仲間(枡本・古内・荻原各氏)と東・中コースを快適にラウンドした。

入院

9月25日慶応病院へ入院した。ジャズ・タンゴのCD10枚と吉村昭・藤沢周平ものを10数枚持ち込んだ。ちょっとした合宿気分だ。10月4日までの10日間は、諸検査の連続である。採決・レントゲン・血圧・心電図・肺機能・胃(バリウム)・胃カメラ・腎臓・大腸等など。当事者でないと理解できない位、身体にダメージが与えられる連日だ。検査時間以外は、暇である。手持ちのCDと本、それにリースしたテレビが余暇を癒してくれることになる。医療体制は抜群だ。K先生を長とする医師チーム(4人)が、一日2回巡回し、患者の状態を診察し、病状を適格に把握、迅速に適切な処置に結びつけている。ナース達も、選抜された看護大学でハードな訓練を受け、それに耐え抜いた力量を保持している。頼もしい限りだ。

胃癌告知

10月5日衝撃的瞬間がやってきた。午前10時、所定の部屋に家内と共に入る。黒板を背にK先生以下医療チーム(4人)が着席している。K先生が徐々に口を開いた。胃癌の告知である。上部(噴門部)に発生している為、全部摘出する手術が必要で、手術の危険率は1%だという。これを聞いた瞬間、脳裏になぎ倒されそうな衝撃が走った。今までの人生を根底から覆されたような強烈なショックである。30数年間宮使えをして来た。後数年で自由奔放な身分を獲得できる目前である。まだまだこの世にやり残すことがたくさん有る。くも膜下で入院中の母(83歳)より先に逝くことはできない。サウジアラビア駐在の長女、アフリカはジンバブエ駐在の長男の顔が脳裏を過る。横の家内も心中の動揺を隠しきれずに涙ぐんでいる。我が人生空前絶後の試練に崩れそうになる自分を、叱咤激励し努めて平静を装いながら、胃全摘出手術をお願いした。このまま放置すると近い将来確実に死が訪れるから。

胃全摘出手術

平成8年10月8日手術が行われた。立会人は家内、長男の妻、その父親の3人である。6時間余の大手術となった。当人は全身麻酔により自覚症状は何もなく、気が付いた時は集中治療室のベットの上であった。身体には、計6本の管が差し込まれている。痛みはどこにもないが、全身が気だるい。体重は78Kgから72Kgへと6Kg落ちた。(身長180cm)。これから胃無し人生がスタートする。それは、未経験の苦難に満ちたリハビリ人生の始まりとなった。

胃術後の養生

50数年間毎日お世話になっている主要消化器胃袋が、ある日突然全部無くなってしまったのだ。その役目は胃液を分泌し食物の消化に当たるもので通常1.8L(1升ビン)位の容量があると言われている。今迄は早食いの上無芸大食を身上としてきたが、今後はそれもできない。勿論禁酒禁煙だ。腸が胃の代わりをしてくれるらしい。術後7日間の点滴生活の後8日目から食事が始まった。一日6回食。1回の食事量は、極めて少ない。更に充分咀嚼し長時間かける必要がある。一寸油断して通常に食べると、胸が苦しくなり、すぐに吐き気を催し、洗面所に直行することになる。従来と全然異なる消化器構造になってしまったのだ。シッカリ覚悟を決めて、ジックリいくしか仕方がない。腸が胃の代わりをしてくれるのに、数年間必要だという。体重も元に戻らないらしい。根本的に人生観を転換しないと、21世紀まで持たないかもしれない。予測し得ない事態が待ち受けているかも知れない。

退院・リハビリ

10月28日、(入院33日間、術後20日間)予定より早く退院できた。入院中、数十人の見舞いを受けた。特に家内は毎日来てくれた。感謝感謝である。これからは食事が仕事になる。食べて良い食品と、避けたい食品を区別し、一日6回食、1回小1時間の難行苦行が始まった。食後3回3種類の消化剤は欠かせない。通院は月2回のペース。体調は最低。身体に力が入らない。歩行するとすぐに疲れる。爽快感などどこかに忘れてきたみたいだ。その後2ヶ月間自宅療養し、1月より出社した。

術後3年経過

平成11年10月、術後3年の精密検査を受けた。結果は順調で何もなく、落ちた体重も元に戻った。苦しみ抜いた3年間、絶えず転移再発の恐怖に苛まれていたが、一まずその恐れもなくなったらしい。体力も6割程度回復したが、相変わらず食事は思うように捗らない。21世紀の初頭位まで何とかいけそうな気配がしてきた。ここでその原因を強いて考慮すると

@ 食事習慣(早食・大食・飲酒・喫煙等)

A遺伝子(母が子宮癌)

B仕事のストレス(担当業務の数年間連続赤字)

が考えられる。定期健診による早期治療等の自助努力が鍵だと思われる。

座右の銘

3年間無事経過後も、無罪放免とはならず定期通院し、消化剤の助けが必要となるらしい。術後は下記モットーが生活の指針となっている。

@ 焦らず

A慌てず

B諦めず

しばらくは、「一生懸命」「頑張る」という事を禁句にせざるを得ないようだ。

ゴルフ会誌「総武」に紹介された文章は以上ですが、健康を取り戻して旅行などの活動が可能となったKTさんはその後歴史的に興味のある中国、息子さんの駐在されているモンゴル、等年4回のペースでの海外旅行を始めました。

平成12年1月にはカリブへの旅行を計画しておりましたが、平成11年末より体調が急変し本人の意思で心ならずもキャンセルする羽目となりました。3月に電話した時は「癌が転移してしまった。とてもしんどい!」と長話は出来ませんでした。そして平成12年4月に帰らぬ人となってしまいました。奥様は「カリブ旅行は実現させてあげたかった」と最後まで実行しようと言われていたそうです。最後の思い出に、との想いだったと思います。千葉で行われた告別式の会場にはモンゴルで馬にまたがって奥さんや息子さんに囲まれた元気な笑顔が大きく掲げられておりました。

物事に関しても、人間に対しても大変感受性が豊かで好奇心の強い男でして、素晴らしい老後の人生を前にして、本当に残念な人を失ったとあらためて残念に思います。心からご冥福をお祈りする次第です。


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