読書録

シリアル番号 634

書名

歴史とはなにか

著者

岡田英弘(ひでひろ)

出版社

文藝春秋

ジャンル

歴史

発行日

2001/2/20第1刷

購入日

2004/06/16

評価

鎌倉図書館蔵。

歴史は科学ではなく文学だ。歴史を道徳的価値判断または功利的価値判断で書くと「悪い歴史」になる。「よい歴史」とは史料のあらゆる情報を、普遍的な個人の立場にたって一貫した論理で解釈できる説明のことだ。すなわち「歴史とはそれを書く歴史家の人格の産物」なのだ。そして「よい歴史」が他人に歓迎されるとはかぎらない。

インド文明はムガール皇帝が廃位されヴィクトリア女王がインド皇帝になるまで輪廻・転生の思想故、歴史がなかった。

イスラム文明も一瞬一瞬が「神の意思」によって決定されるとの思想ゆえ、時間の因果関係は認めない文明であるため歴史がない。ただ「ヒストリア」を書いたギリシアのヘロドトスという歴史家をもった地中海文明の後継者であるローマ帝国と対抗する必要上、歴史の重要さをまなんだ。

アメリカ文明も歴史を捨てた人々が建国したので歴史を持たない。

中国は司馬遷という歴史家を持ったがゆえに歴史をもった。ただ皇帝の正統性を主張するために変化をみとめず、停滞史観と言われている。ヘロドトスのように変化を語るのが歴史という史観をもたなかった。

マルクスは発展段階という時代特有の支配的な生産関係があるという唯物史観を創造した。「下部構造が上部構造を決定する」という考えだ。すなわち原始共産制⇒古代奴隷制⇒中世封建制⇒現代資本制⇒未来の共産制という段階である。これはダーウィンの進化論の影響をうけている。そもそもマルクスの思想の源流はペルシャのゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教のメシア思想ないし終末論の考え方からきている。実の歴史はこの予想のようには展開していないのはソ連の崩壊で白日のもとにさらされた。思想というより気分、情緒的な枠組みといってよい。

日本文明は中国文明から独立するために生まれた。白村江(はくそんこう)で唐に負けたのち、天皇を押したてで中国皇帝と対等と主張したわけだが、以来中国と朝貢関係を結ばず、鎖国を国是としてきている。日本書記は司馬遷の「史記」にならって天皇の正統性を主張するために書かれた日本の正史。古事記はこのパロディー。

江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」は完全なるファンタジー。

世界史は13世紀のモンゴル帝国にはじまる。1971年米国が金本位制を廃止するまで世界は金本位制であったのにモンゴル帝国が滅ぼした金帝国は、貨幣鋳造の原料となる銅資源をもたなかったので信用経済を発展させた。モンゴル帝国は金の信用通貨制度を世界規模に普及させた。ベネツィアに銀行ができたのもこの影響。モンゴル帝国がユーラシア大陸の貿易を独占したがゆえ、ヨーロッパ、日本などの周辺国は海洋貿易に出ざるをえなかった。

国民国家はイングランド王の植民地が独立してアメリカを建国したことにはじまる。パリの市民がフランス王からその領地を奪い、ナポレオンが国民軍を編成してヨーロッパを蹂躙してから国民軍の強さが認識され立憲王国ができた。日本もこれにならいアジアではじめて国民国家を作った。日清戦争の日本にまけた中国が日本に習い、国民国家建設にまい進している。しかし、他民族を取り込んだ、国民国家建設は無理がありいずれ頓挫するだろう。中国が国民国家に転向した結果、新しい国民とか国家の枠組みで歴代皇帝の歴史を中国史として読むと勘違いし、中華思想が昔からあったのだなどというおかしな中国史が蔓延することになった。「悪い歴史」の例である。全く新しい述語の体系を作って歴史を叙述することからはじめなければならない。

軍事に強い故、国民国家はあまねく世界に普及したが、軍事技術が強力になりすぎて、国際連合、ヨーロッパ連合などができて国民国家の主権を制限する方向に向かっている。


トップ ページヘ