シリアル番号 | 561 |
書名 |
鉄砲と日本人 |
著者 |
鈴木眞哉 |
出版社 |
洋泉社 |
ジャンル |
歴史 |
発行日 |
1997/9/8初版 |
購入日 |
2003/04/10 |
評価 |
優 |
防衛庁職員だった日曜研究者である鈴木眞哉氏の力作。
腰越図書館所蔵本。
信長が鉄砲を有効に活用して長篠の合戦で武田勝頼に勝ったという俗説を原資料を引用して論破している。そもそも3000挺の銃を三段構えで撃ったというのは小瀬甫庵の「信長記」にはじめにでてくる記述で、長篠の合戦に直接参加した人の書簡、日記にはでてこない。せいぜい1000挺くらいであったらしい。武田が騎馬隊で攻撃したとは武田の正史「甲陽軍鑑」にも書かれていない。馬には身分の高い者が乗ってきて、戦場では下馬して戦うのが当時の実相であった。俗説で正しいのは信長が柵と土塁などの簡易な城を築いたことである。武田の敗因は三分の一の兵力と兵の遂次投入であった。
司馬遼太郎ですらこの俗説変じて定説になったものに引っかかったと主張している。原典に帰れという話。真実にせまるには負けた側の書いたものを読めとも。
1557年頃、火縄銃が普及した後に西洋が工夫して創設した近代的騎兵というものをついに日本は生みださなかった。
徒歩兵が騎兵に対抗できるようになるのは南北戦争で元込めの連発銃が普及してからです。
よく日本で火縄銃の普及が騎馬戦を衰退させたという定説があるが的外れの説明である。
日露戦争後の陸軍の白兵戦至上主義も日本独自の発想ではなくヨーロッパも同じ傾向があった。