読書録

シリアル番号 1178

書名

誰も知らなかった皇帝たちの中国

著者

岡田英弘

出版社

ワック株式会社

ジャンル

歴史

発行日

2006/9/21初版
2006/10/13第3刷

購入日

2014/01/25

評価



鎌倉図書館蔵

日本の古墳に関する文献を探していてたまたま目に入った本。

帯に現代中国人は漢文がよめないから、19世紀までの中国王朝の歴史は全く知らない。本書は中国史上有名な5人の皇帝の生涯を描きながら、中国人も知らない中国を描き切ったと。

中国を国と思うから誤解する。国家・国民、国民意識などといえるものは20世紀はじめまで中国には存在しなかった。中国の歴史は「皇帝たちの中国」であった。

中国史はつまらないというのが通り相場。なぜなら中国史には時代毎の変化がなく、単調だから。どの時代も似たようなことの繰り返しだ。中国史には人格が書 かれていない。なぜなら歴史は皇帝の天下をほめたたえるために書くものだったから。書いてあることは御立派な建前ばかり、本音はどこにもない。

中国文明の三大要素は「皇帝」、「都市」、「漢字」である。

「漢族の時代」=前221の秦の始皇帝・漢・三国・普・南北朝
「北族の時代」=589の隋の文帝・唐・五代・宋
「新北族の時代」=元・明・清・1895年に日本に負け中国文明は終焉を迎える

中華思想は漢族のものではない。「北族の時代」の司馬光が「資治通鑑」で新たに興りつつあった新北族の契丹(きったん)に対し、北宋の人々が自分達こそ正当の中華だといいだしたことに発する。しかし、中国史をみれば「漢族の時代」をのぞけば中国皇帝の3/4が「夷狄」出身なのだ。

中国4,000年はウソ。都市国家が点在しただけ。中央集権の中国は秦の始皇帝ではじまる。秦=支那=チャイナ
中国皇帝はローマ帝国の皇帝とは全く違う。ローマでは元老院の第一人者と言う意味のアウグストウスを皇帝と誤訳した。皇帝とは中原に発達した商業を中心と する都市国家をつないた通商ネットワークの安全を保証する男といういみ。商品にかける商税と関税および高利貸が軍を維持する収入となった。中国は南船・北 馬といわれるように全ての交通路は洛陽を通っていた。

始皇帝が中原の都市を統一したとき地方によって漢字の字体と読み方がちがった。始皇帝は3,300字を選び字体と字音を統一した。失われたものは字の意味 である。漢字には名詞、動詞、形容詞の区別がない、人称も、過去、現在もない。したがって主語、述語、目的語がない。すなわち文法がない。感情を表現する には適さないが、広い地域のコミュニケーションには役立つ。漢字の意味の統一は標準のテキストを決めるということによって達せられた。現在の中国では漢字 を廃止せず北京発音をローマ字化してを使っているのは漢字を廃止すれば中国としてまとまる必要はないことになるからである。

漢字は表意文字と教わったの間違い。南京中医薬(漢方)大学四年生、22 歳、一児の母が般若心経にローマ字で読み方はふれるが、意味が全く分からないというのは本当だということ。北方遊牧民とは我々アルタイ語族と同じ。した がって隋以降の中国語はすくなくとも上層部は我々と同じ語族だった。日本語の訓読みは呉音だから三国時代の漢族の王朝言葉だ。われわれのほうが中国より漢 族の発音を温存していることになる。それだけ大陸の民族の興亡は激しい?南京中医薬(漢方)大学四年生の現代中国語の発音は我々アルタイ語族と同じという ことになる。

ちなみに、ドラヴィダ語と、ウラル語及びアルタイ語のグループ(ウラル・アルタイ語族)の間には、著しい類似性が存在し、このことは両者が共通の起源より の派生であるとは言えないにしても、これらの語族のあいだで、展開のある段階において、長期間に渡る接触が存在したことを示唆する。大野晉の「日本語の起源」が有名。

漢字が中国の統一にはたした役割はおどろきの中国にも書いてある。

現在のモンゴルの人口は230万人。西暦2年の漢の総人口は6,000万人弱だったが、武帝が戦争ばかりしていたため漢の終わりには、漢族の人口は千数百 万人に減った。2世紀半ばにはもとに復するも黄巾の乱で400万人に激減。こうして遊牧民を連れてきて定住させた。隋、唐は遊牧民の皇帝が天下をとったの である。漢時代は字音は二重子音や語頭のRがあったが、隋以降は二重子音もRもきえてしまう。それは遊牧民はアルタイ語族だったからである。吉林省にあっ た遊牧民族の高句麗は423年に平譲に都を移した。隋の煬帝は武帝と同じく戦い好きで韓半島の高句麗を3回も攻めたが、落とすことはできなかった。唐の太 宗は644高句麗攻めをしたが失敗。息子の高宋が660年に南の海上から攻めてようやく高句麗は滅んだ。ビックリしたのは倭国であった。日本では天智天皇 の時である。

明は最後の漢人王朝である。被支配者の同意を得る法的根拠がないと皇帝になれない。その同意は世襲という正統性である。世襲でない皇帝は漢の高祖劉邦であ るが、それでも始皇帝の印章を受け継いだ。明の太祖洪武帝は都市貧民の宗教秘密結社の坊主から成り上がった。元から印章を受け継げなかったし、モンゴルも 満州も征服できなかったので万里の長城を築いたのである。

明の三代目永楽帝は北京に都をもったのでモンゴルのカムバック政権のようなものになった。鄭和もイスラム教徒の宦官である。


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