シリアル番号 | 1046 |
書名 |
ヒンジ・ファクター 幸運と愚行は歴史をどう変えたか |
著者 |
エリック・ドゥルシュミート |
出版社 |
東京書房 |
ジャンル |
歴史 |
発行日 |
2001/2/5第1刷 |
購入日 |
2010/3/27 |
評価 |
良 |
原題:The Hinge Factor How Chance and Stupidity Have Changed History by Erik Durschmied
鎌倉図書館蔵
ヒンジ・ファクターとは気まぐれな天候、指揮官の頭の良さ・悪さ、予期せぬ英雄的な行為、個人的な能力の欠如などで帰趨がきまる。軍事用語でこれを「ヒンジ・ファクター」という。 「ちょうつがい」のようにパタンと事態が変わることから名がつけられた。天候については特別に「ウェザー・ファクター」という。例としては
●紀元前1184年トロイの木馬という策略で10年に渉る包囲が終わった
●1187年の第1次十字軍のハッティーンの戦いでは砂漠
●1274,1281年、フビライが台風で日本上陸ができなかった
●1414年の英仏の百年戦争におけるアジャンクールの戦いでは前夜の雨がフランス側の騎兵の足をうばった。英国側の長弓の威力が発揮された
●1788年オスマントルコからバルカン諸国を取り戻す遠征におけるカランセベシュの敗走ではシュナップスの樽が混乱を生じ敗走を引き起こした
●1815年のワルテルローの戦いではデローの騎兵がウエリントンの大砲の着火口を塞ぐ「一握りの釘」を持っていたらナポレオンが負けることはなかった。
●1866年、ビスマルクのプロイセンが600年の歴史を持つオーストリーを破ったケーニッヒグレーツの戦いではプロイセンのモルトケは銃弾を後ろから込める後装式ドライゼ針打ち銃を装備していた。アルフレッド・クルップは後装式大砲を生み出したので一部これを採用していた。対するオーストリーは伝統的な先込め銃である。しかし負けた理由か火器ではなかった。ハンガリー平民出身の名将ベネデクにつけられたオーストリーの二人の貴族出身の軍団指揮官は総指揮者のベネデクの指揮に従わなかったためである。
●第一次大戦中の1914年、バーバラ・W・タックマンの「八月の砲声」はもっぱら西部戦線を詳細に記述しているが当然東部戦線のタンネンベルクの戦いにも触れている。フランスを助けるためにロシア皇帝は65万の大軍を派遣した。第一軍はレネンカンプ司令官、第二軍がサムソノフ司令官が指揮をとった。これに対するドイツ第8軍は兵力13.5万である。しかしこの軍司令部にはマックス・ホフマン中佐が居た。彼は1904-5年の日露戦争の観戦武官として奉天のホームでレネンカンプとサムソノフが取っ組み合いの喧嘩をするのを見ていたのだ。彼はレネンカンプ司令官とサムソノフ司令官は絶対に協力しあわないということを8軍の司令官ヒンデンブルグに進言した。ヒンデンブルグはサムソノフとレネンカンプを各個撃破して葬った。この惨めな配線がロシア革命の導火線となった。
●第二次世界大戦中の1940年、ドイツはマジノ線を迂回し、ベルギーのアルデンヌの山岳地帯を抜けたロンメル率いる第7機甲師団は真っ直ぐ西に進軍し、アラスにおいてイギリス第一戦車旅団の前を西に突き抜けていった。イギリス第一戦車旅団の74両の戦車が側面北川からこれを襲撃し、壊滅させた。驚いたヒトラーが2日間ドイツ機甲師団の攻撃を停止したため、連合軍はダンケルクから撤退できたのだ。ヒトラーの判断がその後の力関係を逆転させた。
●第二次世界大戦中の1941年、ドイツの戦艦ビスマルクはアイスランドの西を迂回して大西洋に出た。オークニー諸島のスカパ・フローから戦艦フッドとプリンス・オブ・ウェールズが出撃。フッドは撃沈される。しかしビスマルクはノルウェー沖での給油をしないという判断ミスのため、燃料不足で高速を出せず、占領下のフランスの港に到着するまえに雷撃機がはなった魚雷で舵を壊され、操舵不能になり自沈。
●1968年ベトナムのテト攻勢のとき、APのカメラマン、エディ・アダムスが南ベトナムの警察長官であるグエン・ゴック・ロアン准将が捕虜を拳銃で銃殺する瞬間を撮影した写真がアメリカ軍を不利にした 。
●1989年ベルリンの壁が崩れたのはドイツ社会主義統一党中央委員会の新任スポークスマンのギュンター・シャボウスキー委員が「彼らはいつでも行くことができるし、誰もそれを止めはしない」との一言から始まった。