読書録

シリアル番号 020

書名

技術屋(エンジニア)の心眼

著者

E・S・ファーガソン

出版社

平凡社

ジャンル

技術

発行日

1995/7/17初版第1刷

購入日

1995/07/17

評価

原題:Engineering and the Mind's Eye by Eugene S. Ferguson

大学の工学教育が伝えることのできない、物の形を発想過程、芸術、右脳と技能の世界にスポットをあてており、含蓄のある意見である。

かっての上司のK氏が最近手に入れて読んでいると聞き、本棚から探し出してもう一度パラパラめくってみた。著者は産業界で働いた人なのでこういう本が書けたのだとおもう。学会の人は狭い範囲で 一つの法則の周りで深い穴を掘っているだけなので、実際の設計をした経験がない。そういう先生に教わった学生は設計、即ち創造がいかになされるか知らない。 創造がなければ収入は閉ざされる。日本亡国の道だろう。

私の経験では全ての設計アイディアは脳の中で生じる対象物のイメージが摩訶不思議な蒸留作用で選別される。組織など関係ない。あくまで個人の脳の中の現象なのだ。自分で制御できることはせいぜい何をしなければいけないか考え、関連するあらゆることを勉強し、人と討論し、アバウトな計算をし、スケッチを沢山描き、試作し、ぶっ壊しなどの試行錯誤してから十分睡眠をとったときとか散歩しているときパッとひらめくものが、大切なのだ。まさに心眼!! プラント設計が対象なら中を流れる流体がビデオのような動的な流れとして頭に浮かばなければだめだ。そうするとどこに注意して設計しなければならないか分からない。

創造とは人間の脳にインプットされたものを自らの構造に上手く収まるように知識を再編成している過程で生じるものだと未だに実感しつつある。

著者はイギリスの建築家アラン・カフーンの言葉を紹介する。「設計の問題の解決に科学の法則をどんなに厳密に適用しても、設計者は心の中に、望んでいる結果の構図を持っていなければならない」と。そして「法則は人の心がつくったものである。法則はモデルであって、それが有効なのは、出来事によって誤りであることが示されない限りにおいてなのである」と。

モデルを作って詳細な計算することは自分の創造物にもったいぶった飾りをつけ、他人を説得するためにする後ろ向きの作業に外ならない。現に私がいま引き受けたtechnical due diligenceでしていることがそれである。

創造を最もたくみに行うのがアメリカだ。なぜなら試行錯誤の意味を社会が知っているからである。失敗しても暖かい目で見て支援し、成功すれば喝采する。日本は江戸時代ころから失敗→切腹だ。この伝統が一番顕著に残っているのが当然ながら武士社会の後裔にあたる役所。役所に研究費を預けるなんてことはドブに銭を捨てるようなもの。原子力船ムツがその例。これは三菱重工の他愛ないチョンボなのだが、無誤謬神話維持のためか正しい遮蔽をすることを認めず、膨大な維持費をかけてほとぼりが冷めるのを待ってひそかに幕とした。マスコミも同罪。外にも六ヶ所村の燃料再処理、高速増殖炉など沢山ある。いずれも試行錯誤を認めないメンタリティーのため。日本は明治維新で武士階級をなくしたはずだが、いまだにシブトクに生き残っている。

昨日ご紹介したナシーム・ニコラス・タレブが「ブラック・スワン」で「日本の文化はランダム性に間違った対応をしていて、運が悪かっただけでひどい成績が出ることもあるのがなかなかわからない。だから損をすると評判にひどい傷がついたりする。あそこの人たちはボラティリティをきらい、代わりに吹き飛ぶリスクをとっている。だからこそ大きな損を出した人が自殺したりする」と指摘している。米国はなぜいまだに技術革新の中心であるのかの秘密は日本の逆の世界だから。

Rev. August 16, 2009


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