スキー歴

スキーは小学校に入る前に履いた。単板のスキーである。長野市内の平らな住宅地で歩くだけで残念だった思い出がある。 このスキーを中学時代まで使っていて飯綱山で直滑降していて先を折ってしまい、先の無いスキーで七曲がりを下った思い出もある。このときサングラスなどしていなかったから雪目で目も開けられない状態だった。

高校時代は受験勉強でスキーなどしなかったと思う。大学の教養部時代、スキーを体育の正規の授業として2単位をもらった。蔵王温泉で1週間の講習会を2回受け たわけで申し訳ないようなことだった。こうしてパラレルクリスチャニアやウェーデルンをマスターした。

社会人になってからは職場単位で毎年志賀高原にスキーに出かけた。特に1月15日の公休日に加え17日の会社の創立記念日の休暇をあわせて好都合だった。社会人3年目の1963年1月15日に会社のプロセス・エンジニアリング部(当時は化工部といった)の若手が万座温泉に繰り出した時の写真がアルバムにあった。

万座温泉にて 1963年1月 

同じ職場の先輩の椿さんに連れられて1962年に乗鞍岳や法師温泉にでかけたものである。

職場以外でも同じ寮にいた同期の長浜とは万座温泉、菅平、乗鞍岳にでかけた。 万座温泉の雪質が良かった記憶がある。菅平では山岳スキーにチャレンジしてスキーをブッシュに引っ掛けて転倒し、捻挫したこと。乗鞍岳ではスキー靴で歩いて転倒・滑落して九死に一生を得たことなど思い出す。

このころメタルスキーがでてきて、粘性が少ないだけスピードが出ると買い換えた。この細く長いスキーで志賀高原のジャイアント・コースを下るのはかなり技術を要した。このメタルスキーはいまでもガレージに保管してある。

志賀高原にて 1969年1月

結婚3年目の1970年を最後に日本でのスキーはやめた。1971年に天然ガス液化プラントの設計のためロンドンのベクテル・オフィスに駐在となったためである。この仕事が終わって1972年に帰国するときスイスのゴルナーグラードで氷河を見ながらダウンヒルに挑んだのがスキーをした最後である。

息子が小学生6年生のとき、スキーを教えてくれという。越後湯沢に出かけてボーゲンだけをしっかり教えた。息子が夢中になって楽しむさまを見てもっと遊んでやらねばいけないなと思った。按ずるより生むがやすしというが、息子はすぐひとり立ちして親離れした。

こうしてスキーは永久に忘れたと思っていたところ、高校時代の北ラス会の友人達が山又山の山の会のメンバーを中心に野沢温泉で冬の3ケ月、毎月スキーをしているという。2005年はパスしたが2006年から参加した。 この会は4Sクラブと自称している。

January 5, 2006

Rev. September 19, 2009


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