義民助弥

信州、高田の庄が今だ松代藩の領地だったころの寛文の初期(340年前)、下高田の原助弥(すけや)18才、他2名が上納俵のことで松代藩に直訴し、寺尾村の鳥打峠の露と消えた。訴状によれば、籾一俵は京升で5斗2升、玄米で3斗の所、2斗8升にして欲しいとのことであった。刑場の露と消えたが、願いは聞き届けられた。よって人々は、義民助弥という。二斗八様ともよばれる。

南高田の毘沙門堂にの境内に大正14年11月建立の義民助弥之祠があり、伊勢社には二斗八様をまつる小祠がある。毘沙門堂の東隣3軒目の原家が義民助弥の生家で、その屋敷跡に義民助弥誕生の地の石碑がある。

2003/10/18


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