二一会平成26年度第3回研究会

茶道(わび茶)の形式

飯島正

2014年8月22日

アジア大名誉教授室

 

●足利義政:室町幕府8代将軍、東山殿 前回終了

一休宋純:後小松天皇の子。臨済宗の僧。
侘び茶を創始し、茶室を考案した茶道の祖。わび茶の開祖にしては全く違うイメージに驚く。1470年、76歳のとき、住吉薬師堂で鼓を打つ盲目の旅芸人・森侍者(しんじしゃ)に 恋をする。彼女は20代後半。2人は50歳の年齢差があったが、一休は詩集『狂雲集』に「その美しいエクボの寝顔を見ると、腸(はらわた)もはちぎれんばかり…楊貴妃 かくあらん」と刻むほどベタ惚れし、彼女もまた彼の気持を受け入れ、翌年から一休が他界するまで10年間、2人は酬恩庵に戻って同棲生活を送る。一休は 『狂雲集』において森侍者のことを美人と呼び、七言絶句の漢詩『狂雲集』(きょううんしゅう)を 残した。狂雲とは一休の号である。仏を敬い、先人を尊ぶ作品の一方で破戒や自己嫌悪が見られ、仏門の求道者の自分を詠んでいるかと思えば、女色に耽溺する 自己を詠むといった具合で、狂雲集の世界は尋常一様でない。一休は、女色も男色もほしいままにした。隠れてこそこそしたのではない。平気でそのことを『狂 雲集』に披露した。

 吸美人淫水
密啓自慙私語盟
風流吟罷約三生
生身堕在畜生道
絶勝潙山戴角情


美人の婬水を吸う

蜜に啓し自ら慚ず、私語の盟、風流、吟じ罷んで、三生を約す。 生身堕在す、畜生道、潙山戴角の情を超越す。

ひそかに美人にささやいては、自分でひそひそ話の誓いを恥ずかしく思う。風流な詩をうたい終って、三度生れ変って交わろうと約束した。この生身は畜生道に堕ちこむが、すばらしいのは、潙山戴角が水牯牛に生れ変った心情である。

この他にも

美人の淫水を吸う・・・・美人の陰に水仙花の香有り
楚台(そだい)(まさ)に望むべし
更に応に攀(よ)ずべし
半夜、玉床(ぎょくしょう)、愁夢(しゅうむ)の間(かん)
花は綻(ほころ)ぶ、一茎(いっけい)梅樹(ばいじゅ)の下(もと)
凌波仙子(りょうはせんし)、腰間を遶(めぐ)

この詩は、古代中国の楚王の伝説を踏まえて書かれている。ある日、楚王が楼台で遊んでいた時のこと。楚王は、楼台で昼寝をしていると、夢の中に仙人の女性 が現れ、楚王と男女の交わりをしました。別れ際に仙人の女性は、「これから雲となったり雨となったりして現れますからそれを形見としてください」と言って 消え去る。(このことから、「雲雨(うんう)という言葉が性行為を表す言葉となったそうだ)。
上の漢詩の三句までは、この楚王のエピソードのことを示している。楚王が仙人の女性と交わった話を思い出して下さいな、ということ。あの話のように私たちも・・・・と後の句に続く。
四句めの「花」は森女でもあるし、彼女の秘部でもありましょう。それが綻んでいる。で、その花の元に「梅の木のひと茎」があるんです。これは、一休さんの男根のこと。
五句の「凌波仙子(りょうはせんし)」とは、中国故事にもとづいており、仙人の女性が波の上を軽やかに楚々として渡る様子のこと。その仙女の腰の間をめぐるわけ。

一休さんの森女との関係を詠んだ漢詩がまだある。

木は凋(しぼ)み、葉落ちてさらに春を回(めぐら)
緑を長じ、花を生じて旧約新たなり
森也が深恩もし忘却せば
無量億劫(おくごう)畜生の身

森女との愛によって、枯れ果てた身と心に再び春がやってきた。森女の深い愛情に応えられなければ、私は未来億劫、畜生の身となるであろう。

まだある。

お経を読んでいさえすれば、坊主なんてものは一生食いっぱぐれない。適当に恥をかき、 無知を承知でいれば大金は入る。そこへもってきて男色に遊び、ついでに尼さんをものにしていれば、これは陽春(堺の陽春寺)でほとばしる「白雪」だってい つもピュッピュと飛ばせて、気持ちいいこと限りない。

現在、酬恩庵は宮内庁の管轄で一休寺の名で親しまれている。

人はこの一休さんと「頓知の一休さん」は同一人物かと疑う。無理もない、水上勉などの努力もあったが、実像が知られていないのは文部省が正しい歴史をおしえていないなによりの証拠だろう。実像は千利休の三代前の大先生ということ。
変人・奇人の最たる怪僧だ。わたしはこういうタイプの人間が好きだ。こういう人間が世の中を変える。

●村田珠光(じゅこう):奈良称名寺の僧から還俗
。一休禅師に師事
わび茶道の始祖。


●武野紹鴎(じょうおう):村田珠光の弟子。草庵のわび茶

●千利休:武野紹鴎の弟子。千家流開祖


飯 島正先生はもう歳をとってNHKの人気番組「花子とアン」を観ているだけとなったが、思い起こせば若い頃、盛んに経済評論をかいていたところ内閣府の目に とまり、呼び出されて首相に面会したことがある。横にいたのは村岡花子で、番組の役者と同じ細長の顔をしていたと記憶している。

飯島正先生はゼミが終わった後の雑談で中国は早くて今年中、長くて2年以内に崩壊するのではとの予測をしておられた。
中国社会科学院文学研究所員 孫歌(すんぐー)氏によれば中国の農民は王朝が滅びるのは恐れないが、天下が滅びるには恐れる」という。ここで天下とは人間関係を規定する道徳システムのことである。確かに中国の歴史は天下をうしなった皇帝は民衆から見捨てられてきた。先生はそいう意味で言ったのだろうが、中国が日米の製造拠点になっている現状をみれば共産主義政権もそう簡単には天下を手放すこちょはないのではないかと思う。

先生はスズキ自動車でインドを回り、鈴木自動車のインド展開のきっかけをつくった。アジア大学理事長の瀬島氏にかわいがられ、教え子は現役の内閣府の官僚となり、御嬢さんの連れ合いは先生が米国で経済学を教えていた時の教え子だ。

先生の弟子の一人でこのゼミの受講者の一人は建設会社に就職して上越新幹線の工事に携わった。あるとき指定の杭が岩盤に到達しなかった。顧客の鉄建建設の 本社でかなり日数をかけて検討した結果、岩盤に達せずとも摩擦杭として有効と宣言。なにもせずとも良いという結論がでた。以後、上越新幹線は怖くてのれな いと言っていた。

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August 28 , 2014


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