インドネシア・スラウェシ



(カリマンタン編から)

1.ペルニの航海(バリッパパンBalikpapan→パレパレParepare、7月23,24日)

 船が出港する前の時点で乗客の居場所が決まっていたので、寝る人、隣近所と楽しそうにおしゃべりをする人がいた。 シャワー室は汚かったが、探せばちゃんと水が出て体が洗えた。

 しかし、宿でも良くあった事だが遅くまで大声でおしゃべりしたりテレビを見ている人には閉口した。 そんな環境でも寝てしまう人がいた。 要するに寝たい人は寝る、起きたい人は騒いでもかまわないのだろう。 インドネシア人(多分ジャワ人)はよその東南アジアの中でもかなり習慣が違い、タフな人が多いらしい。 人口密度の高いところはそうなってしまうのだろう。
 それでも2時〜4時はみんな寝てしまったらしい。 静かだった。 しかし、彼らのほとんどはイスラム教徒である。 朝5時にはお祈りがあるので(ほとんどの人はしない)4時半頃から起き出した。 おそらく、彼らは昼寝をするから寝不足にはならないだろうが日本人にはつらい。

 起きてから少し経ってからいきなり一人の男が駆け足で去った。 その後から二人の男が何やら叫んで追いかけた。 どうやら泥棒らしい。 気を付けねば・・・。

 結局、パレパレに着いたのは1時間半遅れの朝9:30だった。 疲れたが面白かった。 やはりエコノミーは1泊で止めた方がいいだろう。

2.ボッタクリとの戦い(パレパレParepare、7月24日)

 地図を見るとパレパレはウジュンパンダンと伝統的な建物で有名な観光地、タナトラジャの中間に位置するらしい。 持参のガイドブック「旅行人ノート4 海洋アジア」にはウジュンパンダンからタナトラジャの中心、ランテパオはバスで8時間くらいと書いてあったのでおそらく4時間くらいでタナトラジャまで行けるだろう。 そのままランテパオに向かう事にした。

 しかし、ガイドブックにはパレパレの事が載ってなかったので近くにいたおじさんにバスターミナルの行き方を聞いたが、この人はあまり良く知らない(もしくは教えるのがイヤ?)のか?なかなか教えてくれない。 それを見ていたマレーシア辺りの物資を運んでいるらしい担ぎ屋のおばさんが「私もそこまで行く。」と言うので少々不安だったが担ぎ屋グループに付いて行く事にした。

 担ぎ屋だけに荷物が多い。 ポーターを雇うつもりらしいがなかなかまとまらない。 しばらくすると警官がやって来た。 グループとは仲が良いらしく、親し気になにか話してそれからポーターが荷物を運び出した。 警官を仲介させないとトラブルになるらしい。 さらに港からベモに乗ってマイクロバスの後ろに着いた。 これでランテパオまで行くらしい。 しかし、警官が登場した時点でいやな予感がしたが的中した。 バスは20,000Rpだと車掌が言い出した。 バスはエアコン無しだった。 サマリンダ→バリッパパンのバスはエアコン無しで所要2時間、5,000Rpだったので10,000Rpと予想していた。 担ぎ屋グループの青年が「僕らは30,000Rpだよ。」と言った。 彼らは荷物が多いから仕方ないだろうが(彼らが言った事も信用できない)あまりに高い。 仕方ないので近くにいた親切な中国系らしいおじさんにバスターミナルへの行き方を聞いてその場を去った。

 おじさん曰く、ペテペテ(ベモ、乗合タクシーのこの地域の呼び名)で500Rpとのこと。 今までのベモから考えてこれは妥当な値段らしい。 ところが、何台かペテペテを捕まえたがどいつも「1,000Rp!」としか言わなかった。 この町はかなり病んでいるらしい。

 ペテペテと交渉していると、道の向こうから誰かが呼んだらしい。 よく見ると懐かしい顔があった。 東マレーシア、クチンで一緒だった事があった独特の訛りの英語を話すオージー、ウェードとガールフレンドでおっとりしたスウェーデン人ヘレナだった。 恐らく、彼らは私とは逆にクチンから北東に東マレーシアを縦断し、東カリマンタン州の北からインドネシア入りして同じ船だったのだろう。(彼らとは後日談をしたかったがバスをつかまえるのがやっとだった。) 彼らは私と同じランテパオに向かっているらしい。

 ウェードの話によるとバスターミナルまで行かなくても今いる場所の近くをバスが通過するのでそこで捕まえられるようだ。 それらしい場所に着いてそこにいた身なりのいい高校生らしいグループに聞いてみた。 どうやら場所は正解らしい。 そこに早速バスが来た。 しかし、値段を聞くと「15,000Rp」とふっかけてきた。 「10,000Rp」まで下がった時点でウェードに「多分、これが正当な料金じゃないかな?」と聞いてみると「いや、もっと安いよ。」と彼は言った。 車掌は9,000Rpまで下げたが、とりあえず1台見送って様子を見る事にした。

 それからウェードが「インドネシアの物価は高いと思わないか?」と聞いたので「為替でUS$が下がってRpが上がったからじゃないかな?」と言うと「いや、彼らは嘘の値段を言ってお金を稼いでいるんだよ。 彼らはラオスより豊かだけど多分、政府が腐敗しているからそのしわ寄せを外国人にしているんだ。」と言った。 外国人に対して大声で何か言ったりして馬鹿にした態度を取った人間の存在が彼の言った事の正しさを裏付けている。 その後何台かバスが来たがみんな10,000Rpから下げない。

 様子を見て、見かねたのか?さっきの高校生グループがやってきて「なにか手伝う事はありませんか?」と言ってきた。 ウェードが彼らに料金を聞くと7,500Rpらしい。 ウェードは私の顔を見て得意そうな顔をした。 まだまだ値段交渉が甘いらしい。
 それから高校生が英語で質問攻めしてきた。 それぞれの国のことば、社会について。 中には「「君が代」をどう思いますか?」と難しい質問をしてくる女の子もいた。 やはりインドネシアの女性はあなどれない。 彼らは我々から多くの事を学びたいらしい。 表情はラオスの若者達と一緒だ。 ボッタクリには抵抗するが、こういう事には賛成だ。 ヘレナも同じらしかった。 しかし、西洋人に多いのだがウェードはあまり乗り気ではなかったらしい。

 その後も何台かバスが来たが満席だったりふっかけてきたりでウェードたちは嫌気が差したのか?「ランテパオは止めてその先のパロパにする。」と言い出した。 早くインドネシアを出たいようだ。 とにかくバスターミナルまで行けば何とかなるのだが・・・。

 見かねた高校生グループの有志が郵便局の車を運転してきて「これに乗って下さい!お金は要らないです。」と言った。 捨てる神あれば拾う神ありだ。 3人は高校生達に見送られてバスターミナルに向かった。 多分、運転しているのは郵便局の幹部の子息だろう。 無免許運転だが、警察幹部に知り合いがいるので大丈夫だそうだ。

 バスターミナルに着いてからもなかなか空席があるバスが来なかった。 ほとんどがスラウェシ一の都会、ウジュンパンダン発で始発の時点で満席らしい。 その間も2人の高校生達は付き合ってくれた。 彼らはこの国では中流以上の階級の家にいるらしい。 英語は堪能だし、色んな事を知っていた。 例によって大声で馬鹿にした態度を取ったオヤジを見て「すいません。 彼は頭がおかしいんです。」と言って別に彼には責任が無いのだが謝罪した。 どんな国でも年齢、階級に拘らずちゃんとした人間はいるのだ。 この国の将来を担うだろう彼らに期待したい。

 結局、2時前にパロパ、ランテパオ行きバスが捕まった。 みんなに握手をしてバスに乗ってランテパオに向かった。

3.穏やかな人々(ランテパオRantepao、7月24日〜29日)

 パレパレ付近は平野部で大きな米の倉庫があるくらいの穀倉地帯らしい。 しかし、すぐにバスは山地を走った。 運転は慎重だったので気分が悪くならなかった。 車窓は棚田や竹林が多い日本の山里のような風景になった。 もう少し行くと雄大な山々の景色になった。 よく見ると違うのだが、なんだか長野県あたりにいるみたいだ。 カリマンタンは丘や低湿地が多くてあまり地形の変化がなかったが(中央部には2,000mクラスの山がある。マレーシア側には4,000mクラスのキナバル山がある。)スラウェシ島は細長い地形に拘らず、2,000m〜3,000mクラスの山が多い。 従って車窓は変化に富んだ面白いものになりそうだ。 移動はなるべく昼間に限った方がいいだろう。 景色を楽しみながら6時過ぎにランテパオに到着した。 宿はガイドブックに載っていたWisma Maria(S17,500Rp)にした。

 チェックインしてから食事に外出すると、Tシャツでは寒く感じた。 夏の長野みたいだ。 宿の人に教えてもらったのは西洋人向けのレストランだった。 そこはフリー・ガイドたちの仕事探しの場でもあった。 2人から話し掛けられたが、ミャンマーのようにいきなり「フレンド!」と言うようななれなれしさは無く、かといって「Mr.!」と腰が低いわけでもなく自然な感じで営業してきた。 最初はここを仕切っているボスがそうさせているのかな?と思ったが、どうもこれはこの土地の人(トラジャ人)の性格らしい。 なんとなく、日本的な人との接し方をするのだ。(カリマンタンのダヤク同様、人の顔つきも日本人にぐっと近づいてくる。) この辺ではカリマンタンの町のように人を馬鹿にした態度を取るいやなオヤジがいないし、ベモは少しふっかけてくるがすぐに値を下げる。 ふっかけないベモが結構多い。 同じインドネシアとは思えない穏やかな人が多いらしい。
 この辺はキリスト教徒が多いため、お酒や豚をよく見かけることもインドネシアらしからぬところだろう。 また、田舎の市場でビンロウを噛んでいるのか?口の中が赤くなっていたおばあさんがいた。

 ランテパオの周辺にある見所を5つほどまわったが、ランテパオの町の近くを除けば有名な観光地にも拘らず静かで土地の人はフレンドリーというところが多いらしい。 一番良かったのは訪れたところの中で一番遠いバトゥトゥモンガBatutumongaというところで、能登半島の千枚田を大規模にした棚田がある。 ガイドたちもここを勧める。 村人たちは穏やかでイヤミに感じない程度に挨拶してくれる。 子供達は外国人の私に興味があるので近くによって見に来るが、写真を撮ろうとすると恥ずかしがって逃げてしまう。 ラオスの田舎の子供達みたいだ。 水田の他にコーヒーの栽培もしていて、道の脇に豆を干しているのが見える。 タナトラジャで採れた豆は「トラジャ」というブランドになるらしい。

4.静かな湖(ペンドロPendolo、7月29日〜31日)

 ダイビングで有名なスラウェシの北部に向かうため、進路を北に取った。 マナドの南、トミニ湾に浮かぶトギアン諸島までは特に見所はないがポソ湖という湖で一休みするツーリストが多いらしい。 ツーリスト向けの宿がテンテナTentena、ペンドロPandoloの2個所にある。 そのうち静かそうなペンドロに向かうバスのチケットを前日に購入した。

 出発前に銀行で50,000Rp札を両替しようとすると懐かしい顔があった。 クチンで一緒だったカナダ人のヤンだ。 彼もこれからテンテナに向かうらしい。 悪い事を思い出させるかもしれないので聞かなかったが、クチンのレストランでシンナー中毒の男に殴られた傷は大丈夫らしい。 クチンからここまでパレパレで再会したウェードたちとほぼ一緒に東マレーシア、サラワク、サバ州を旅したらしい。 

 バスは事前に聞いた時間に宿に迎えに来てくれたが、ボロバスだった。 ランテパオの町を一回りしてバス会社の事務所に戻って修理を始めた。 さらに、あちこちで人や荷物を積めるだけ積んだのでペンドロ到着が予定の3時間半遅れの21:30だった。 ヤンとはそこで別れた。 彼もトギアン諸島に行ってフローレス島、ロンボク島などを訪れるらしい。またインドネシアのどこかで会うだろう。
 同じ宿にいたベルギー人のおじさん、おばさんが乗った別の会社のバスならまだ新しいし、時間も1時間早かったみたいだ。 どうやら選択ミスらしい。 調査していたときに見たバスはもっときれいだったのに運が悪かったのだろうか? 宿は湖畔に一番近いPondok Wistana Masanba(W20,000Rp)にした。

 翌朝、外を見るとポソ湖は思ったより大きくて景色のいいところだった。 でも特に見所があるわけではないようで、大抵のツーリストは1〜2泊して北に向かうらしい。 しかし、宿の近くは漁村で丸木舟の両側にアウトリガーが付いたスラウェシらしい漁船がいくつか浜に置いてあってなかなか絵になる風景だった。

5.日本の痕跡(ペンドロPendolo〜アンパナAmpana、7月31日)

 2泊してペンドロを去り、北スラウェシ州の州都マナドへ向かうべくトミニ湾の町アンパナに向かう事にした。

 ペンドロからは中央スラウェシ州第二の町ポソまでキジャンで移動した。 キジャンは湖の西側の村々をまわって客を集めながらポソに向かった。 最大で15人乗車(ドライバー含む)した。 車掌は屋根の上に乗った。 ドライバーは一人の若い青年の客が降りたときに倍額を請求した。 ウソを付くのは外国人だけではないらしい。 この商売はよほど金にならないのだろう。

 キジャンは昼過ぎにポソのバスターミナルに到着した。 そこには英語で話しかける男達が客引きをしていた。 ほとんどがうそつきベモのドライバーで「今日はアンパナまで行くバスはない。」などとんでもないうそをついていた。 この国には親切でいい人が多いが、こういった下らない人間が多すぎる。 東南アジアではシンガポール、マレーシア以外は大抵いるが、ここまで多くない。
 バス会社の事務所をまわって3時に出発するバスに乗る事にした。

 今度のバスは最悪だった。 出発してから1時間程してから車輪がおかしくなってきて、2時間後には立ち往生してしまった。 そこはTojoと言うココナツ、カカオの農場がある人口600人の農村で店は雑貨屋が数軒あるだけだった。
 暗くなると向かいの雑貨屋から女の人が来て食事を勧めてきたが、他の人達が何も食べてなかったので付き合う事にして断った。 しばらくすると、そこの御隠居さんらしいおじさんがやってきて日本語で話しかけてきた。 彼の話によると第二次大戦中に日本人が建てた学校に通っていたそうだ。 挨拶、整列のときの掛け声、ラジオ体操など昔の日本そのものだった。 珍客を見に大勢村人達が店を訪れたが、年配の人は大抵日本の教育を受けていたらしく懐かしそうに日本語(単語レベルだが)を話したり、日本の当時の歌を歌ったりした。

 彼らの話によると日本軍は'42年にマナドに上陸して20日でこのスラウェシを制圧したらしい。 それから'45年までこの島にいたらしい。
 多分、彼らは日本軍からひどい目に会っていたと思うがそれには触れずに日本からの珍客を歓迎してくれた。

 持参したガイドブック「旅行人ノート4・海洋アジア」に「・・・ふと立ち寄った島で、第二次世界大戦の日本軍の痕跡を見るかもしれないし、あるいは島の老人から日本語で話しかけられるかもしれない。・・・」とのコメントが最初にあるが、現実に目の当たりにするとは思わなかった。 この他にも年配の人から日本語で話しかけられたり、昔の童謡を聞いたりした。

 食事を勧めてくれた雑貨屋の女の人もかなり私に興味があったらしく、いろいろ質問された。 こちらが「この村にはヤシの木が多い。」と言うとさびしそうに「ここにはヤシの木しかない。」と言った。 単調な村の生活に疲れているのか?なにか刺激が欲しいみたいだった。 彼女は7歳と2歳の女の子の母親で御隠居さんの娘さんとのことだ。 おそらく御隠居さんは私の両親と同年代(60代)みたいだ。

 普通、日本人はこの島を「変な形をした島。」位にしか思ってないだろうが、日本の山間部の農村に似たタナトラジャやこの村の人達を見ているととても縁のある所のようだ。

 結局、村には5時間ほど立ち往生してバス会社の代替バスで雑貨屋の人達に見送られながら村を去ってアンパナに向かった。 アンパナに着いて宿(Losmen IRAMA、W12,500)に落ち着いたのはAM1:00だった。 ひどい目に会ったが有意義な事があった日だった。
 

6.人は信用できない(アンパナAmpana、7月31日〜8月2日)

アンパナは西洋人ツーリストの間ではダイビングができるビーチリゾートがあるトギアン諸島へのゲートウェイとして知られている。 ここから船に乗って直接トギアンに向かった方が便利だが、どれだけ予算が必要かなど情報がなかったのとインドネシア・ビザを取り直す情報(マナドから貨物船に乗ってフィリピンに行って戻ってくる)が不足していたのでこの町の東にあるパギマナPagimanaからフェリーに乗ってトミニ湾の対岸にある港町ゴロンタロGorontalo、次にマナドを先に訪れる事にした。(多分わからないと思うので高校時代の地図帳があれば見て下さい)

 アンパナは食堂が何軒かあり、港や市場まであるちょっとした町だった。  町の所々でカカオ豆を干していたのを見てカカオの集積地でもあることに気が付いた。 夕方には子供が浜で遊んだり、漁師が漁をしたりしているのを見ながら日没が見れた。

 翌日に次の目的地、パギマナに向かうためバスターミナルを訪れてバスのチケットを購入しようとした。 事前に土地の人の何人かから運賃は10,000Rpと聞いていた。 先に調べておかないとぼられる恐れがあるのだ。 最初、バス会社の人も10,000Rpと言っていたのだが国籍を聞いてから12,500Rpと言い出した。 「土地の人は10,000Rpということを知っている。」と言っても「外国人も一緒。」としか言わない。 これはあやしい!
 実は他にも似たような事があってかなり頭に来ていた。 そこでつい、バス会社の受付をしていた女の子に「インドネシア人はうそつきが多い!ここの人間は悪いやつということを言いふらしてやる!」と言ってしまった。 彼女もさすがに頭に来たらしく、なにやら反論らしいことを言っていた。 あとで気が付いたのだが、これは「いじめ」と同じだ。 たとえ彼女がウソを付いていたとしても会社の方針かもしれない。 本当だったらひどい事をしたことになる。 実に後味が悪い。

 後で他のバス会社に聞いても最初10,000Rpと言っていたのに予約のために名前を聞いてから(外国人ということがわかる)12,500Rpと言い出した。 「土地の人は10,000Rpということを知っている。」と言うと「明日から値上げする。」と言う。 日本ではバスの運賃が値上げすると事前にポスターで案内するので「証拠の書類を見せろ!」と聞くと「無い。」という始末。 残念ながら彼らを信じる材料がない。 彼らも証明するためか?どこかから英語が話せるインドネシア人らしい女性を連れてきて説明させようとしたが、彼女も「私も信じられない。」という始末。

 日本円に換算すると\50しないくらいだが、不正をのさばらせると他の旅行者に迷惑なので残念ながらパギマナ行きを諦めることにした。 そこで、ポソに戻るチケットを購入したが料金は行きと同じだった。 やはりあやしい!

7.快適?なバスの旅(アンパナ→マナド8月2日〜7日)

 船に乗らないとなるとひたすらバスで移動するしかなかった。 大抵の路線に数社運行しているが、料金はほとんど一緒でエアコンバス、デラックスバスなど上のクラスのバスがない。 そうなると、快適さ=バスの程度でバスを選ぶ事になる。 しかし、新しいバスを保有している会社の座席は早く埋まり、当日では古いバスしか保有してない会社の切符しか買えない。 幸い、ポソ→アンパナのような事にはならなかった。 バスが古いだけが問題ではないのがスラウェシだ。 道が悪い事も不快の要因だ。 凸凹だけでなく、カーブが多いので乗客が酔ってしまうのだ。 パソ→パル間では隣の子供の嘔吐物を足に被ってしまい、洗濯のためパルで2泊した。
 今までで一番ハードなバスの旅だった。

 沿線の景色はカリマンタンと違って標高の高いピークを持つ山が多いので、非常に変化あるものだった。 沿線のほとんどがココナッツのプランテーションか日本的な風景の水田だった。 トミニ湾の南側ではバリ島からの移住者か?ヒンドゥー教寺院やそれらしい祠のある家が多かった。 また、木工が盛んで家具を作っている小さな工場が目に付く。

 この区間はアンパナ→ポソ(1泊)→パル(2泊)→(夜行バス)→ゴロンタロ(1泊)→マナドで6日間のバスの旅だった。 マナドに着いたらお尻が痛かった。

8.活気ある港町マナド(マナド、8月7日〜10日)

 夜9時過ぎにマナドのマララヤン・バスターミナルに着いてベモでセレベス海の海岸沿を通って中心に向かった。 神戸や長崎のような坂の多い町で、スラウェシに上陸してから1番の都会(最大の都市、ウジュンパンダンにはまだ行ってなかった)らしく交通量、沿道を行く人の数はずば抜けて多かった。 女の子の服装を見ると垢抜けていて、カリマンタンと比較しても1番オシャレな町らしい。 また、この地域の人達は港町のせいか混血が多いらしく日本的な顔をした人、インドネシアにしては色白の人が多い。 宿は中心に近く、旅行情報満載のSmiling Hostel(D8,000Rp)にした。

 着いた翌朝、宿の近くの市場から競りの声がスピーカーから聞こえていた。 起きてから市場に行ってみると、そこは他のインドネシアの町では見た事が無かった賑わいだった。 大声でセールスしている売り子が多かった。 買い物客の数も多い。 とにかく活気のある町らしい。 この市場の人間は血の気が多いのか?インドネシアに入ってから初めて殴り合いのけんかを見た。 また、人込みの中でスリらしい少年が右ポケットを触ってきた。 気を付けねば・・・。
 一方、中心から南に歩くとデパートが立ち並び、オシャレな服装をした人達がウインドーショッピングを楽しんでいた。

 この町には暇な人間が少ないためか?カリマンタンの都市に多かった人の体にすぐ触るなれなれしいオヤジは少なかった。 今までいろいろ腹の立つ事があったが、久々の都会の町歩きでいい気分転換になった。

9.贅沢な、島での1週間(ブナケン島、8月10日〜17日)

 マナドの近郊にブナケン島という小さな島がある。 ガイドブックによるとこの島は世界的に有名なダイビングのポイントがあるという。 その割に宿代が高くないし、海がきれいと言う話なので行ってみる事にした。

 島へはマナドの宿で一緒だったオーストラリアでのワーキングホリディ帰りのノブ君と2月にラオスで会って、マナドの宿で再会したヒロさん、船で知り合ったお盆休暇のゲンタ君の4人で行った。 さすがに有名なところらしく久々に複数の日本人と行動する事になった。

 定期船は例によって1時間近く遅れて人と荷物を満載してマナドの桟橋を出港した。 乗客は主に買い物帰りの島のおばさん達で旅行者は数人だった。 島の人達はほとんど顔見知りらしく、時々誰かが冗談を言ってみんなを笑わせた。 1時間ほどして島の中心の部落に到着した。 キリスト教徒が多いらしく、浜にはブタがいたりした。 あちこちで人と荷物を降ろして夕方には目的のパンタイリアンに着いた。 宿はマナドの宿で勧められたところのつもりだったが、船の中で話し掛けてきた政治家の田中真紀子似のおばさん(島には他に野沢直子似の女の子がいた)の宿が少し安かったので部屋を見て決めてしまった。(おばさんの宿はIbu Konda Cottage、私は近くのKristin Cottage。共に一人三食付き30,000Rp)
 部屋のマンディルーム(トイレ、シャワールーム)を見て驚いた。 蛇口が無いのだ! 水が無くなったら宿の人に言うと宿の人がバケツでどこかから水を汲んで持ってきてくれる事になっている。 私がいたところはおばさん、娘さん(ビンダと彼女のお姉さん)の女所帯で主にビンダが私の世話を焼いていたので気が引けたが仕方ない。 遠慮しつつ水を使った。 後で気が付いたが、この宿は私が使ったコテージのみという贅沢なものだった。 今まで何十人の収容人員の宿でお客が一人と言う事があったが、こんな事は初めてだ。

 島での生活は単調だった。 食事は大体、他の日本人と一緒に。 何もしないでのんびりしたり、近くの海でシュノーケリングをしたり、島の子供と遊んだり・・・。 でも楽しかった。 有名なところの割に島の人は穏やかで、最初は愛想が無くてもすぐ笑顔で挨拶してくる。 子供達も最初は遠慮しているが、慣れると友達扱いになる。 島の人達は本当に楽しそうに毎日を過ごしているらしい。
 ダイビングで有名なところだけに海はきれいだし、なんとなく沖縄・八重山の島を訪れたことを思い出す。 あっという間の1週間だった。

10.世界最小のサルとの遭遇(タンココTangkoko自然保護区、8月19日〜21日)

 海の次は山!と言うわけでタンココ自然保護区に行く事にした。 今度も日本人のノブ君と彼としばらく行動したニュージーランドのおじさん、デビットの3人でマナドから出発した。 マナドからギリアンと言うところでバスを乗り換えてデコボコの悪路を通ってバトゥプティー村まで行った。 宿はマナドのSmiling Hostelで紹介してもらったTarsius Home Stay(W28,000Rp、3食付き)にした。 宿の子供達とはすぐ友達になれた。

 村は静かな漁村で、外国人が程々訪れるらしくなれなれしい人間はいなかったが適度に人懐っこい人が多いらしい。 何日か静かに過ごすにはいいところらしい。

 ここでの目玉はやはり自然保護区だ。 動物の生態に合わせて朝、夕にガイドが案内するツアーがある。
 朝のツアーは5時でまだ薄暗い。 ガイドは日本のトイレで使うようなサンダルを履いてどんどん獣道を踏み歩く。 黒いサルの群れ、大きなクワズイモと思われる葉の下で睡眠中のコウモリ、高い木にいたサルなどを見た。
 夕方のツアーも5時からで、こちらは世界最小のサル、タルシスの観察がメインだ。 この小さなサルは昼間は大きな木の中で眠っているが夕方に外に出て活動する。 日本名はメガネサルか?ネズミくらいの大きさだろう。

(スラウェシ2編へ)

東南アジア旅行記へ戻る

アジアを行くへ戻る



トップページに戻る