海に浮かぶ和多都美神社の大鳥居。令和2年9月の台風で倒壊し、現在の鳥居は令和3年8月に再建された。


二の鳥居も満潮になると海に浮かぶ海中鳥居となる。


入江の一画に祀られている磯良恵比須。
 対馬のほぼ中央、浅茅(あそう)湾に面した小さな島・岬・入江が連続するリアス式海岸の美しい景観のなかに、豊玉町仁位(にい)の和多都美(わたづみ)神社は鎮座している。
 海から拝殿に向かって5つの鳥居が一直線に並び、満潮時には沖に近い2つの大鳥居が海に浮かぶ。決して豪奢な社殿を有する社ではないが、自然の地形をそのままに受け容れた神域は、空間そのものが壮麗な建築であるかのように、油断なく構えられている。

 昭和43年(1968)に島の南北を結ぶ縦貫道路が開通し、観光バスも入れる当社までの道ができた。それより前は、参拝者は海上から船で参拝に来ていたという。昭和56年(1981)には、映画「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」のロケ地にもなって、今では対馬を代表する観光スポットの1つとなっている。

 対馬の郷土史家・永留久恵著の『海神と天神』(白水社)によると、対馬にはおよそ10か所ほど和多都美の社があり、このほかに社号は異なるけれども、同様の由緒をもつ和多都美系の神社は、『対馬島誌』(昭和3年発行)に77社あるという。
 また、対馬の式内社29社にも、和多都美(海神)の名がつく神社が4座ある。当社のほかに、豊玉町仁位の「和多都美御子(わたつみのみこ)神社」、厳原町久和の「乙(おと)和多都美神社」、峰町木坂の「海神(かいじん)神社」である。海神神社は、古くは木坂八幡宮と呼ばれていたが、明治3年(1870)に和多都美神社に改称、翌明治4年に、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、現在の海神神社に改称された。

 このように多くの和多都美が鎮座している国は対馬だけである。まさに海人族が住まう島・対馬は「ワタツミ(海神)の国」であったといえる。

◎◎◎
 当社の祭神として祀られているのは、海神(わたつみ)・豊玉彦命(大綿津見神)の娘・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と、その夫で「海幸山幸伝説」の山幸彦にあたる天神(あまつかみ)の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)である。

 神社の由緒によると、神代の昔、豊玉彦が当地に宮殿を造り、その宮殿を「海宮(わたづみのみや)=竜宮」と名づけられた。ある時、山幸彦が失った釣り針を探して海宮にやってきた。山幸彦はこの宮に3年滞在し、豊玉姫をめとり、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)という子をなした。その子が、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)で、のちの神武天皇となる。
 対馬は、「海幸彦・山幸彦」神話の発祥地とも称されており、この伝説は浦島太郎のお伽噺などに残る「竜宮伝説」の一つだといえる。

◎◎◎
 社殿に向かう左手の入江に、木製の三柱鳥居が立てられおり、3本柱のなかに「磯良恵比須(いそらえびす)」とよばれる大きさ1mほどの、奇っ怪な形相をした岩が顔をのぞかせている。撮影時は干潮だったが、潮が満ちると磯良恵比須は海水に浸かり、やがて没してしまう。

 三柱鳥居といえば、京都市太秦(うずまさ)の「木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社」(別名:蚕の社)が有名であり、始まりとなる。三柱鳥居の起源等は明らかでないが、当社の三柱鳥居は、比較的最近になって立てられたものだろう。
 2009年発行の永留久恵著『対馬国志』や1984年発行の谷川健一編の『日本の神々 神社と聖地(1)』に掲載されている磯良恵比須の写真には、四方に忌竹(いみたけ)を立て、注連縄(しめなわ)が張られた斎場の形が写されている。

 磯良恵比須の表面には、鱗(うろこ)状の深い亀裂がはいり、あたかも蛇体か亀の甲羅のような様相を呈している。案内板には、磯良の墓、または古代祭祀の霊座、ご神体だったのではないかと記されている。
 神話上の豊玉姫は、御子を出産するときに、入江に造られた産屋に入り、龍蛇の姿に化して子を生んだ。このとき豊玉姫は、山幸彦に絶対に覗かないでほしいと頼むが、我慢できない山幸彦はこっそりと覗いてしまう。豊玉姫は覗き見られたことを恥じて、出産した御子を渚に置いて、海に去っていく。
 「磯良恵比須」の名称は、龍蛇と化した豊玉姫の御子・磯良と、漂着神で漁業の神として知られる恵比寿の合体から名付けられたものだろう。

 また一説には、磯良は金印「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」で有名な、福岡県の志賀島(しかのしま)を本拠地とする海人族の祖・安曇磯良(あずみのいそら)の墓ともいわれている。
 安曇磯良は、神功皇后の新羅征伐の際、船の舵取り役を務め、龍宮から干珠・満珠の宝(山幸海幸神話にも登場する)を借りだして、三韓出兵を成功させたという。さらに、当社の宮司を務めた長岡家は、安曇磯良を始祖とする系譜をもつが、「長岡家の世継ぎは背中に鱗がある」という口承もある。

海底の神、阿曇磯良をあらわすご神体。
蛇体を思わせる鱗状の亀裂は、自然に形成されたもの。


案内板。


神明造りの本殿。本殿の左右に境内社の祠がある。


本殿裏の原生林にある「豊玉姫之墳墓」と称される磐座。当社叢は長崎県の天然記念物に指定されている。
 拝殿の横から一直線に伸びる「龍松(たてまつ)」の根っこに沿って歩くと、棟持柱をもつ神明造の本殿があり、その裏手には、かつての禁足地であった原生林の社叢が広がっている。

 神域の森に入る入口の手前に、三柱鳥居に祀られた「亀甲石(きっこうせき)」と呼ばれる霊石が鎮座している。亀甲状の溝が刻み込まれたその風貌から、その昔、亀卜(きぼく)の神事が行われた斎庭(ゆにわ)といわれている。
 亀卜とは、亀の甲羅に熱を加えて生じた亀裂の形状を見て、国家的な行事の吉凶を判断する卜占(ぼくせん)の一種である。起源は古代中国で、殷の時代に盛行し、対馬には5世紀頃に伝来したとされる。

 古代律令制には、対馬国10名、壱岐および伊豆から5名ずつの卜部を神祇官(じんぎかん)の管轄下において、亀卜の実施と技術の伝承を行なわせた。
 阿曇氏の末裔・長岡家は、対馬市美津島町加志に鎮座する太祝詞(ふとのりと)神社の橘氏より亀卜の秘伝を伝授され、近世には対馬卜部(うらべ)の一つとして名を連ねていたという。

◎◎◎
 賽銭箱に拝観料の100円を入れて、鬱蒼とした境内奥の社叢に入る。社叢に一歩足を踏み入れると、これまでの海辺の風景から一転、いきなり人里離れた山ふところに入った観がある。
 森の中の小径を歩いて行くと、その奥に夫婦岩とよばれる巨石群があり、中央に「豊玉姫之墳墓」と刻まれた墓碑が置かれている。墓碑の前には、石積みの祭壇とお神酒を入れる瓶子があって、この自然の岩場が神聖な場所であることが分かる。

 ただ、豊玉姫命は「仁位の高山」に葬られたと、安政7年・万延元年(1860)の『楽郊紀聞(らくこうきぶん)』に記されているので、この磐座はその遥拝所のような場所として祭祀が行われていたと思われる。

◎◎◎
 和多都美神社から南に約1.6km、浅芽湾のリアス式海岸や大小の島々が一望できる「烏帽子岳展望台」に足を延ばしてみた。
 標高176mの山頂近くまで道路が整備されており、駐車場から145段の階段を登ると、浅茅湾の雄大な景観を360度見渡すことができる。
 東に対馬海峡、西に朝鮮海峡。島土の約89%が山地であり、今も多くの原生林が残されている。陽光の中に輝く海の青と森の緑のコントラストは美しく、なかなかの絶景であった。

◎◎◎
2023年12月23日 撮影


拝殿横の三柱鳥居と亀甲石。


その風貌から「亀甲石」と呼ばれ、
亀卜(きぼく)のための磐座と伝えられている。


「烏帽子岳展望台」から眺めた浅茅湾の風景。