浅芽湾の西側、尾崎漁港の北にある都々智神社。満潮になると鳥居の建つ参道は海面下に沈む。


島に隣接した埋立地(手前)から人道橋によって島に渡ることができる。


海に突き出た都々智神社の小島。かつては干潮時のみ渡れる島への参道であった。


社殿の裏にある岩壁。社殿が建てられる以前は、ここで祭祀が行われていたのではないかと推察する。
 対馬旧下県(しもあがた)郡の厳原町(いづはらまち)椎根(しいね)地区にある対馬特有の「石屋根倉庫」を見て、ついで元寇(文永の役・1274年)の古戦場「小茂田濱(こもだはま)神社」を参拝し、県道24号線を北上し、美津島町(みつしままち)尾崎(おさき)の都々智(つつち)神社を訪れた。

 尾崎の都々智神社は、対馬の中央に広がる浅芽(あそう)湾の西側、波おだやかな尾崎漁港の先に浮かぶ周囲約100mほどの小さな島のなかにある。
 ここには干潮時を狙って訪れたが、どうやらこれは杞憂であったようだ。島に渡る神社の参道は、潮が満ちてくると海に沈み、石造りの鳥居は海中鳥居へと姿をかえる。島に渡るのは干潮時しかできないと思っていたが、島に隣接した埋立地「尾崎漁港ふれあい広場」との間にコンクリート造りの人道橋が架けられていた。
 この橋は令和2年(2020)、社殿が新しく建て替えられた折に架けられたものという。これで潮の干満に関係なく、いつでも島に渡れるようになったが、便利になったぶん、孤立した島としての神聖感は損なわれたように思えるが、いかがなものだろう。

 当社の創建や由緒は不詳。祭神は天之狹手依比売命(あめのさでよりひめ)と表筒男命(うわつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・底筒男命(そこつつのおのみこと)の住吉三神である。
 天之狹手依比売命は、伊邪那岐(いざなき)・伊邪那美(いざなみ)の夫婦神が生んだ国土の神の一つで、伊伎島(いきのしま・壱岐島)の次に生まれた津島(つしま・対馬)の別名とされる。
 住吉三神は、伊邪那岐の禊(みそぎ)によって生まれた海の神で、遣隋使や遣唐使の派遣の際にも篤く崇敬され、船が出入りする港湾、航海の安全をつかさどる神とされている。

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 当社は延長5年(927)にまとめられた『延喜式』対馬下県郡13座の一つ「都都智神社」に比定される式内論社であるが、当社のほかにも比定地候補はいくつかあり、
(1)美津島町今里(いまざと)の半島先端部にある郷崎浦の「都々智神社」
(2)厳原町久根田舎(くねいなか)の銀山上(ぎんざんじょう)神社境内社の「都々地神社」
(3)厳原町豆酘(つつ)の「都々智神社(現在の社号は「雷(いかづち)神社」)」
 などが挙げられている。

 (1)郷崎浦の都々智神社は、尾崎漁港の北西、浅芽湾の入口に突き出した半島の先端、郷埼灯台の近くにある。HP「玄松子の記憶」に、「道路は狭く悪路。四輪駆動でなければ注意が必要。陸上自衛隊郷埼訓練場があり、訓練期間は海から行くしかないようだ」とあり、巡拝するのは難しいところのようだ。
 朝鮮の歴史書『海東諸国紀』(1471年)に、郷崎に「可吾沙只 神堂有り」とあるが、対馬の郷土史家・永留久恵著の『海神と天神』(白水社)によると「可吾沙只」は「カオサキ」と読み、その本義は「神崎」と解されると記されている。また、貞享3年(1686)の『対州神社誌』には、「郷崎大明神」とあり、ご神体は「神體石 則山之神霊也」と記されている。

 (2)久根田舎の銀山上神社・境内社の「都々地神社」は、東に臨む対馬の最高峰・矢立山(648m)の遙拝所であったと伝えられている。かつて、矢立山は都々智山とも呼ばれており、当初鎮座の地は矢立山山頂にあり、今も山頂には祭祀場の跡が残されているという。

 (3)豆酘の「都々智神社」については、谷川健一の『日本の地名』(岩波新書)に「対馬の豆酘もとうぜん筒男之命の筒であり、蛇(=雷)を意味すると考えられるのである。〔中略〕しかし豆酘には式内社の都々智神社がある。塩土老翁を祀るとされているが、塩土のツチはツツであり、都々智は筒の霊つまり海人のシンボルである蛇霊を祀るものと解される。豆酘の地名は蛇をあらわすこの都々(筒)に由来するものである」とし、豆酘の語源はツツは筒、チは蛇で、雷神の倭名はイカツチであるという。ツツチとイカツチは同じ名義で、豆酘の都々智神社は雷神社の古名とも考えられている。

 当社案内板(写真下)の「経緯」を見ると、当社の新築社殿は「遥拝社殿」と記されており、当社は郷崎の都々智神社(郷崎大明神)に対する遥拝所、あるいは里宮と考えられているようだ。
 当社では、毎年3月29日「郷崎様参り」と称し、神主と村の氏子代表が尾崎集落から郷崎浦の都々智神社まで、狭い山道を越えてお参りをしていたが、近年、途中の山道が危険と判断されて「郷崎様参り」は中止となった。これを機に、令和2年(2020)当社を郷崎大明神の本社とすべく遷座し、改めて「都々智神社」として祀られることになったという。

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 今一度、当社周辺の海外風景を振り返ってみよう。 当社に隣接する埋立地が造成されたことで、海岸の景観はすっかり変わってしまったように思われる。
 干潮時のみ渡ることができる海に突き出た小島は、海の彼方からやってくる神が、まず最初に依り着く島であった。その景観の神々しさから、島自体が一つの磐座として崇められ、島に社殿が建てられる以前は、島の岩壁の前で祭祀が行われていたのではないかと推察する。

 当社が都々智神社と改称されたのは明治初期のこととあり、それ以前は「津口(つのくち)の神社」と称されていたという(『日本歴史地名大系 長崎県の地名』平凡社)。「津」は船つき場、港の意であり、古くから尾崎漁港の航海の守護神として、地域の信仰を集めていたのだろう。

 津口神社から都々智神社へと名称が変わってしまったが、他の論社と比較して、当社を「都都智神社」の比定地とするには無理があると考えている。

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2023年12月23日 撮影


高さ10mほどの岩山が島の半分を占めている。

案内板。