壱岐の東部、芦辺町の内海湾(うちめわん)に浮かぶ小島神社は、古来より神が宿る島として崇められてきた。島全体が神域となっていて、今も小枝1本、小石1つ持ち出すことは許されていない。
満潮時には沖合に浮かぶ小さな離島だが、干潮になると海が割れ、陸地と繋がる陸繋島(りくけいとう)となって、数時間だけ歩いて島に渡ることができる。
内海湾が日本遺産に認定された2015年以来、こうした神秘的現象が話題となり、フランスの世界遺産になぞらえて「壱岐のモン・サン・ミッシェル」ともよばれ、新たな観光資源として脚光を浴びるようになった。
あらかじめ調べておいた当日の干潮時刻は14時だった。早すぎるかなと思える12時10分に到着したが、意外にも砂州(さす)は島と繋がっており、浮かび上がったばかりの参道には、すでに2人の先客がいた。潮だまりにうずくまって、何か作業をしているようだ。
近づいて見ると、地元の小母さんが一本爪の根かき熊手を使って小さなカキを採っている。干潮時の数時間で、小さなバケツに7分目ほどのカキが採れるという。内海湾は、島内最大の幡鉾川(はたほこがわ)からミネラル豊富な山の水が注がれていて、おいしいカキを育てる良好な自然環境にあるという。
また、幡鉾川を1.5kmさかのぼると、『魏志』倭人伝に記された「一支国(いきこく)」の王都「原の辻遺跡」(芦辺町にある弥生時代を代表する大規模環濠集落)の船着き場にたどり着く。中国大陸や朝鮮半島から船で運ばれてきた荷物は、内海湾で小さな船に積み替えて、幡鉾川をさかのぼり原の辻まで運ばれていたという。
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小島神社は、南北約65m、東西約60mのお椀を伏せたような円形状の小島で、干潮時に現れる参道は約170mほどである。
島の正面にある鳥居をくぐり、島を右回りに進む。あちこちに露頭が見られ、玄武岩のタマネギ状風化や枕状溶岩など、地質学的に見てもおもしい地層がたくさん露出している。
島の裏側にも鳥居があり、石灯籠の先に社殿へと続く参道がある。参道は数10mほどの石段だが、近年の観光客の増大で地盤が崩れかけ、登りにくくなっている。これまでは、17戸の氏子らが協力して参道の補修を行っていたが、氏子の高齢化もあって補修が追いつかなくなったという。現在、クラウドファンディングによって資金が集められ、参道改修の本格的な工事が進められている。
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島の頂上に、周囲を木々に囲まれたこぢんまりとした社殿が鎮座している。由緒によると、小島神社の創建は江戸時代前期の元和6年(1620)とされ、祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、軻遇突智命(かぐつちのみこと)、埴安姫命(はにやすひめのみこと)の4柱である。それぞれ、商売繁盛・金運の神、和合の神、火の恵みの神、土の恵みの神として、地元住民の崇敬を集めてきた。
地元では「コジマさん」、「まんじゅう島」の愛称で親しまれており、古くは別名「カラス島」とも呼ばれていたという。カラスは不吉な鳥というイメージがあるが、『古事記』や『日本書紀』では、導きの神として神聖視されていた。サッカー日本代表のシンボルとなっている3本足の八咫烏(やたがらす)は、神武東征の折、熊野から大和まで道案内をしたといわれる烏である。小島神社においても、カラスは神の使者とされ、信仰の対象になっていたのだろう。
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2023年12月25日 撮影
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潮だまりでカキが採っている小母さんに出会った。

島の裏側にある参道入口。
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