河原のそばにある仰慕窟(ぎょうがぼいわや)と称される巨大な洞窟。間口40m、奥行き30m。


参拝客(観光客)が多く、人影を入れずに撮影するのに難渋した。


洞窟の奥にある天安河原宮。思金神(おもいのかねかみ)と八百万の神が祀られている。


神々に手向けられた石が、いつのまにか賽の河原の積み石となったのだろう。
 日向(ひゅうが)の高千穂は、古来より天孫降臨の聖地として知られているが、神話に因んだ地はこれだけではない。当地には、二上(ふたかみ)、くし触(ふる)、天岩戸( あまのいわと)、天安河原(あまのやすかわら)など、神話にまつわる地名が多く存在している。
 これには、かの坂口安吾もあきれたようで『安吾新日本風土記』のなかで「阿蘇から日向に入る古い道筋に高千穂の町がある。ここには岩戸村があったり、天の岩戸があったり、高天原も天安河原もみんな揃いすぎるほど揃っている」と、皮肉っている。

 たしかに、邇邇芸命(ににぎのみこと)が天降った葦原中国(あしはらのなかつくに)に、高天原にあるべき天岩戸があるのはおかしいとツッコミたくもなるが、ここは名だたる「神話の里」である。細かいことは気にしないでおこう。

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 日本全国に「天岩戸」とよばれる場所はいくつかあるが、高千穂町の天岩戸は、天岩戸神社の神域にある。神社の神域は五ヶ瀬川(ごかせがわ)の支流・岩戸川をはさんで東本宮と西本宮に別れており、祭神には天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られている。

 西本宮は本殿をもたない特有の建物で、拝殿の背後に西本宮のご神体とされる「天岩戸」の遥拝所がある。天照大神がお隠れになったとされるご神体の岩戸は、岩戸川対岸の断崖中腹にある。岩戸周辺は誰も近寄れない禁足地になっており、断崖は雑木に覆われて、実際にはほとんどその姿を見ることはできない。社務所に申し込めば、神職に遙拝所まで案内してもらえるが、写真撮影は禁止されている。
 東本宮は、天岩戸から出てこられた天照大神が最初に鎮座された地とされ、この故事を偲び、弘仁3年(812)高千穂地方を治めていた大神惟基(おおがこれもと)によって再興されたという。

 東西両本宮は、もともと独立した神社で、西本宮は「天磐戸神社」、東本宮は「氏社」とよばれていたが、明治4年(1871)にそれぞれ「天岩戸神社」「氏神社」と改称、同6年に村社に列し、昭和45年(1970)に合併して、現在の天岩戸神社東西両本宮を称するようになった。
 当神社の由緒は不明であるが、西本宮が本殿をもたず岩窟をご神体としているところは、かなり古い年代に創祀された神社であると思われる。

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 天安河原は、天照大神が弟神スサノオの乱行に怒り、天岩戸にお隠れになったとき、八百万(やおよろず)の神々が集まり神議をおこなったとされる場所で、西本宮から岩戸川を約500mほどさかのぼった河原にある。
 河原のすぐそばに間口40m、奥行き30mの仰慕窟(ぎょうがぼいわや)と称される巨大な洞窟があり、その奥には思兼神(おもいかねのかみ)と八百万神を祭神とする「天安河原宮」が祀られている。

 洞窟内には、賽(さい)の河原を彷彿させるケルン状の石積みが並び、なにやら霊場(れいじょう)めいた雰囲気が醸し出されている。この石積みは、戦後になってはじめられたもので、参拝客たちの間で自然発生的に生まれた風習であるという。

 古来より、洞窟は他界への入り口であり、河原は神々の集う広場と考えられ,けがれを祓い清める場であった。野本寛一氏は『神と自然の景観論』(講談社学術文庫)のなかで次のように記している。
 「高千穂町岩戸の天安河原に立ってみると、ここが禊ぎ籠りの場としてはきわめて優れた場であることがわかる。岩戸川の清流で身を清め、洞窟に籠る──そのくり返しが可能な場所なのである。ここが禊ぎ籠りの場として重視され、それが神話の舞台として、現実感を与えているという展開を示してきたのではあるまいか」

 清らかな清流と大洞窟の組み合わせは、いかにも幻想的で、神話の舞台にふさわしい景観を呈している。

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2019年4月20日 撮影

岩戸川の支流・土呂久川にかかる太鼓橋。
ここを過ぎれば、ほどなく天安河原に到着する。