岩戸山古墳の別区に立つ石人石馬(レプリカ)。
墳丘、周堤、別区から石人石馬が100点以上出土しており、その数・種類は他の古墳を圧倒している。


岩戸山古墳出土の扁平石人。高さ154.cm。文化5年(1808)に後円部の頂上で見つかった(国指定重要文化財)。


鶴見山古墳出土の武装石人。高さ158cm(国指定重要文化財)。


伝岩戸山古墳出土の武装石人頭部。高さ73.5cm。


伝岩戸山古墳出土の石馬。長さ163cm。
石馬は九州北部に数例、九州以外では鳥取県米子市の石馬谷古墳の石馬が唯一のものである。
古墳時代における九州と山陰地方との交流の一端をうかがい知ることのできる。


墳丘脇には神社「大神宮」が鎮座している。
古くは後円部墳頂にあったが文化5年(1808)に現在地に再興された。
 古墳の周りには、埴輪(はにわ)と呼ばれる素焼きの焼き物が置かれているが、古墳時代中期の九州北部では、石人石馬(せきじんせきば)と呼ばれる石造彫刻を並べる習慣があった。石人石馬は、古墳の墳丘あるいはその裾部に、表飾として使用された石造造形物の総称で、いわゆる石製埴輪と言い換えることもできる。

 石人石馬の素材には、豊後地方の摩崖石仏と同じ、軟質で彫刻のしやすい阿蘇溶結凝灰岩が使われている。その種類は、人物像および馬像のほかに、ニワトリ、猪、水鳥。器財では靫(ゆき、矢を携帯するための筒状の容器)、盾、刀、家、壷などがある。

 石人石馬がもっとも多く出土している福岡県八女(やめ)市の岩戸山(いわとやま)古墳のそばに、平成27年にリニューアルオープンした岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」がある。
 展示されている石人石馬は、埴輪の精巧なつくりに比べれば彫刻技術は稚拙なものだが、自然石のもつ野趣が独特な重厚感をもっている。無骨で生真面目な印象が好ましい。いつもの巨石巡礼とは少々趣を異にしているが、石好きの私には興味をそそられるものである。

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 八女市の北西部に延びる八女丘陵。この東西10数kmにおよぶ丘陵上に、前方後円墳を含む約300基の古墳が連なる八女古墳群がある。なかでも群を抜いて目立っているのが、今回訪ねた岩戸山古墳である。北部九州最大規模の前方後円墳で、墳丘周囲に幅約20mの周堀や外堤をもち、墳丘全長は132m、後円部径70m、同高さ13.5m、前方部幅95m、同高さ約13.5mを測る(数値は『日本古墳大辞典』東京堂出版より)。これは当時の畿内の大王墓に匹敵する大きさである。
 九州では、西都原(さいとばる)古墳群(宮崎県)の女狭穂塚(めさほづか)古墳(180m)、男狭穂塚(おさほづか)古墳(175m)、唐仁(とうじん)古墳群(鹿児島県)の唐仁大塚古墳(140m)、生目(いきめ)古墳群(宮崎県)の生目三号墳(136m)に次ぐ第5位の大きさとなる。

 古墳は東西を主軸にして、前方部は西に向かっている。墳丘は2段造成で、外堤の北東に「別区(べっく)」と呼ばれる一辺43mの方形の造出し台地がある。これが『筑後国風土記』逸文に記されている「別区」に相当し、被葬者とされる筑紫君磐井(つくしのきみいわい)に関する記録とも一致している。
 昭和31年(1956)、森貞次郎によって磐井の墓に比定され、現在まで定説となっている。日本の古墳のなかで、国造級の被葬者の名前と築造時期が判明できる数少ない古墳の1つであり、八女古墳群は磐井の係累たちの墳墓と考えられている。

 およそ5200基あるといわれる前方後円墳のなかで、これほど巨大な別区を要する古墳は当古墳以外になく、際立って特異な存在である。戦時中ここに馬場が設けられ、戦後は開墾によって多数の石人石馬が出土したが、そのほとんどは運びさられ、配置についてはほとんど分かっていない。
 しかしながら『筑後国風土記』に、当時の別区の様子を物語る興味ある記載があるので以下に記す。

 〈東北の角に別区あり、名付けて衙頭(がとう、政所のこと)という。そのなかに縦容とした一つの石人あり。名付けて解部(ときべ、裁判官)という。解部の前に裸体で地に伏した盗人あり、生きているときに猪を盗み、まさに罪を決められようとしている。側に4頭の石猪あり、これを臟物(ぞうもつ、盗品)と名付く。また、彼の処に石馬三匹、石殿三間、石蔵二間あり〉

 まさに裁判のシーンを彷彿とさせる記述である。この光景は、磐井のもっている政治的権限である裁判権を人々に示すものであり、生前の業績を後世に残すことを目的としたと考えられている。
 現在は別区の東の端に、石人石馬のレプリカが置かれており、古墳築造時の面影を伝えている。

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 筑紫君磐井が、大和朝廷に対し「乱」を起こした、とされるのは継体天皇21年(527)6月のことである。
 『日本書紀』によると、大和朝廷は近江毛野臣(おおみのけぬのおみ)を総帥として兵6万人を朝鮮半島に出動させようとした。朝廷軍の任那出兵に対し、磐井は新羅から賄賂(わいろ)を受けて、朝廷軍の派遣を阻止しようと企てる。そこで朝廷は磐井討伐軍を起こし、翌年11月に物部麁鹿火(もののべのあらかひ)を総指揮官として九州にさしむけた。両軍は筑紫の御井郡(みいのこうり、福岡県三井郡)で交戦し、磐井軍は敗れ、磐井は斬り殺される。そしてその翌月に磐井の子の葛子(くずこ)が、糟屋屯倉(かすやのみやけ、現在の福岡県糟屋郡付近)を献上することによって、反乱軍の残党を許してほしいと願い出てそれを許されたとある。

 一方、『筑後国風土記』によれば、官軍の勢力に勝ち目のないことを悟った磐井は、豊前国上膳県(かみつけのあがた、福岡県筑上郡)方面に逃れたとあり、磐井を見失った官軍の怒りはすさまじく、墓の上の石人石馬を破壊して鬱憤を晴らしたと伝えている。
 どちらの記述が真実なのか明らかでないが、磐井が難を逃れ、生き残ったとされる『風土記』の記述は、磐井を郷土の英雄と位置づける地域感情のあらわれとも思われる。

 この乱以後、太平洋戦争終結に至る約1400年間、磐井は国家(天皇)に背いた国賊とみなされることになる。江戸時代末の尊皇攘夷運動や戦前の国粋主義時代には、遺跡が傷つけられたこともあったという。
 岩戸山古墳の南側、前方後円墳のくびれ部に神社「大神宮」が鎮座している。古くは後円部墳頂に鎮座しており、文化5年(1808)に現在地に再興されたものという。 創建年代は不明であるが、墳丘上の神社を建てたのは、古墳全域を神格化することで、磐井の墓を守ろうとした地元民の知恵であったとする説もある。 郷土の英雄・磐井の墓を守るために、地元においては並々ならぬ苦労があったと思われる。

 この磐井の乱に対し、考古学者の森浩一は著書『敗者の古代史』のなかで、一般に語られている「磐井の乱」は、『日本書紀』の「磐井が陰(ひそか)に叛逆」したとする記載を鵜呑みにした歴史用語であり、地域国家の王としての磐井の立場では、侵略者と戦うことは当然の行為であるとし、「磐井の乱」ではなく「磐井戦争」と呼ぶことを提唱されている。
 大和朝廷が成立するのは継体天皇以後の6世紀になってからで、その大和朝廷が九州を掌握するのは「磐井の乱」以後のことである。「磐井の乱」という言葉は、勝者である『日本書紀』の立場から出たもので、その記述はかなり潤色されているとみる研究者は多い。

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2019年4月20日 撮影

石人頭部


岩戸山古墳出土の石盾(完在品)


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