社号標の「浦」の文字に漫画に出てくる汗マークが、「神」の文字にふたつの目が書き込まれている。


石段手前に建つ石鳥居に「明治四十一年十月建之」の造立銘が記されている。


拝殿の前に置かれた2つの自然石が狛犬を彷彿させる。


岩崖の中腹にある本殿。一重の玉垣に囲まれている。


覆堂の中に色鮮やかな朱塗りの本殿が建てられている。


本殿の左側、岩崖の下部にご神体に供えた瓶子や皿、玉串の細片が散らばっていた。
 鳥羽市相差(おうさつ)町からパールロード(県道128号)を北に走り、生浦(おうのうら)湾に架かる麻生の浦(おうのうら)大橋を渡ると、道路右手にカキ筏(いかだ)の浮かぶ穏やかな内湾の風景が、左手に「浦神社」と刻まれた自然石の大きな社号標が見えてくる。

 この大きな社号標、ひと目見てなにか微妙な違和感を感じさせる。よく見ると「浦」の文字の右肩にある点が、漫画に出てくる汗マークに、またその下の「神」の文字に目を模したと思われる2つの「」が描かれている。なんのおふざけかと思い社号標の裏面を見ると、なんと「六代 桂文枝 書」と記されていた。
 浦神社に「いらっしゃ〜い!」ですね。

 県道沿いの参道に立つ4基の石鳥居を通り抜け、急勾配の石段を上る。岩崖の中腹に一重の玉垣に囲まれた朱塗りの本殿があり、その背後に当社のご神体とされる巨大な一枚岩がそびえ立っている。
 丘陵から突き出た高さ約30mのこの岩山は、キントウ山、ギントウ山と呼ばれている。『角川地名大辞典・三重県』の浦村の項には「金土山」と表記され、「金土山のふもとには真熊野神社があり、同社は明治6年浦神社と改めた」とある。
 江戸時代中期の志摩国の地誌『志陽畧誌(しようりゃくし)』(1713年)に「真熊野権現社同村金土ノ巌下二在り」とあるのは、このことを記したものだろう。

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 三重県神社庁の浦神社由緒によると、創立年代は不詳。明治6年に村社となり、明治40年12月に境内社、村内小社を合祀(ごうし)して浦神社となったとある。
 現在、安曇別之命(あづみわけのみこと)を主祭神として、伊弉諾尊(いざなみのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・大戸之道尊(おおとのじのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・誉田別尊(ほむたわけのみこと)・素戔嗚命(すさのおのみこと)・大国主尊・菅原道真・大山祇命(おおやまつみのみこと)など多種多様な10柱(11柱とも)の神さまが祀られている。

 主祭神である安曇別之命(女神)の出自は不明だが、安曇の名から海の神(ワタツミ)の祖神であると思われる。安曇別之命は「昔よりお乳の神様と云われ、食料のなかった時代に参拝すると乳の出がよくなると言い伝えられており、里の産土神としてあがめられ、古来「浦の権現さん」として有名である」(三重県神社庁 浦神社由緒)

 また、目にご利益があるとして知られており、拝殿左側の小さな洞から「目薬の水」と呼ばれる水が、ごく少量であるが湧き出ている。古くからこの水を飲めば、目の病も良くなるという言い伝えがあり、今もこの水を求めて参拝に訪れる人もいるという。

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 一段一段、重い足をもちあげて、50段あるという石段を上りきった。ご神体の根方となる岩陰は、張り出した岩盤を庇代わりにして風雨を避けることができる。この本殿左側の岩崖に、神前にお酒をお供えするのに用いる瓶子(へいし)や皿、榊の枝に紙垂(しで)をつけた玉串の細片が散らばっていた。

 石段手前の石鳥居に「明治四十一年十月建之」の造立銘が記されていた。繰り返しとなるが、当社の由緒によると、江戸中期に金土山の巌の下に真熊野権現が祀られており、明治40年(1907)に近隣の小社がここに合祀され、現在の浦神社になったとある。

 明治末期のこの時代、国策である「神社合祀令」によって1町村1社を原則とする中小神社の統廃合が進められた。とくに三重県においては神社合祀が強制威圧的に進められ、明治36年(1903)に1万524社あった神社が、大正2(1913)年には1165社にまで減少した(『三重県統計書』)。この神社合祀政策に対し、博物学者・民俗学者の南方熊楠が勇猛果敢に反対したことをご存知の方も多いだろう。

 鳥居建立の年号から現在に至る浦神社の姿を推測すると、明治41年の鳥居建立と同時期に石段と社殿も設けられたと考えられる。
 今からおよそ120年前、現在の石段と社殿が造られる以前には、社殿、もしくは祠は岩崖のどの位置にあり、どのような姿だったのだろうかと想像する。当時の様子が分からないかと、鳥羽市教育委員会に問い合わせてみたが、当時の史料は見つからず不明であった。

 神道は元来「自然信仰」であるから、特異な景観を備えた山や岩、樹木などがご神体としてあがめられ、山のふもとや、岩や樹木の根方などの野外において簡素な祭祀がおこなわれてきた。
 この時代、信仰の対象は山や岩、樹木そのものであったが、やがて、現在のような常設の神社社殿が出現すると、神社が独立した信仰の対象となり、日本人の神観念は、自然崇拝から人格神への信仰へと変わっていったという経緯がある。
 浦神社にりっぱな社殿があるにもかかわらず、岩崖の前で祭祀がおこなわれているのは、今においても古代の磐座信仰が名残りを留めていることの証であろうと思われる。

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2022年6月29日 撮影


拝殿の左側にある「目薬の水」。洞から湧き出る
拝殿の左側にある洞には澄んだ湧水があり、
その水を飲むと目が良くなると云われている。

毎年7月14日、天王祭の宵宮には、
本浦地区・今浦地区、共に御船を仕立てて
両区の役員が船に乗り、笛と太鼓を打ち鳴らして
渡御をして参拝する習わしがある。


金土山にそびえる高さ約30mの巨大な岩崖。浦神社のご神体として崇められている。