県道12号線のかたわらにある剣峠のモニュメント。奥に野口雨情の詩碑もある。


モニュメントから県道をはさんだ山裾に剣岩の入り口がある。


剣岩に向かう山路。訪れる人は少ないのだろう、路の整備はされていない。


剣峠の山頂。左に剣岩、右に臥龍うばめ。


絶妙なバランスをとってそびえる剣岩。
 伊勢神宮・内宮の早朝参拝を終えて、県道12号線(伊勢南勢線)を南下し、南伊勢町切原の北端にある剣峠(つるぎとうげ)をめざす。

 鬱蒼とした樹林の迫る県道を、五十鈴川(いすずがわ)の清流を眺めながら、およそ14kmの道のりを上っていく。これが思いも寄らない険道だった。かろうじて道は舗装されているが、ほぼ全区間が一車線分の幅員でガードレールもない。対向車が来たら面倒だなと懸念しつつ走っていたが、見事なぐらい対向車は現れない。

 県道12号線は、明治23年(1890)に伊勢に通じる近道として開通した。以後、南伊勢の五ヶ所湾で採れた海の幸を「伊勢の台所」河崎に運ぶ重要な経済道路となるが、昭和40年(1965)に磯部町と伊勢市を結ぶ伊勢道路が開通すると、この道を通る車は激減したという。

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 神宮から剣峠に至る五十鈴川流域の山林は、「神宮宮域林」と呼ばれる日本一広大な鎮守の森で、面積は5,446ヘクタール。私の住む東京都世田谷区とほぼ同じ大きさであり、剣峠が宮域林の南端境界線となっている。

 内宮から剣峠に向かう途中に、高麗広(こうらいびろ)と呼ばれる集落がある。ここでの高麗とは、朝鮮半島北部にあった高句麗という国に因むものだろう。なぜこんな山の中に朝鮮半島に由来する地名があるのか、と素朴な疑問をもった。

 金達寿(きむたるす)の『日本の中の朝鮮文化-4』にも「高麗広」の記述が見られる。いわく高麗広の住民は「職業は主として農林業に従事し、夏期は農林、冬期は木炭生産でかせぎ、神宮林で生計をたてている」とあるが、詳しい由来については分からずじまいだったという。

 また、五十鈴川の名は、清らかな川の流れで倭姫命が御裳(みも)のすその汚れを濯(すす)いだという伝説からついたといわれているが、真弓常忠の『古代の鉄と神々』によると、五十鈴の「鈴(スズ)」は、鉄分の多い水辺で育った葦・稲・薦(こも)・茅(かや)などの植物の根に吸着した褐鉄鉱のことであるという。
 五十鈴川の川すじに住む高麗広の住民は、かつて異国より渡来し先進の製鉄技術をもたらした韓鍛治(からかぬち)の末裔ではなかったと、勝手なあて推量をするが、はて真偽はどうなのだろう。

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 やっとのことで標高343mの剣峠にたどり着いた。峠には車が数台置ける広場があり、木々の隙間から南勢町側に広がる景色が見渡せる。剣岩は広場西側の山中にあるはずだが、周囲に剣岩を示す案内板はない。はて、どこに登り口があるのだろう。

 落石注意の看板のそばに、木製階段の痕跡が見える。ほとんどが段差の部分が埋もれていて、もはや階段のていを成していないが、ここが登り口だろうと見当をつけて登っていった。
 道はまったく整備されていない。滑って転倒しないように立木につかまりながらゆっくりと歩く。健脚者なら10分ほどだろうが、私の足では20分近くかかってしまった。

 峠の頂上に、高さ3mほどの剣岩が天空を突き刺す剣のように屹立している。絶妙なバランスを保ち立っている姿は力強く、風化した岩の表面から古代の気配が感じられる。

 剣峠の名は、付近に八禰宜山(はちねぎさん・426m)があり、その山容が剣のような岩からなることに由来する(角川地名大辞典 24)とあるが、剣岩の偉容を見るとこの説には合点がいかない。やはり峠の名は、剣岩あっての剣峠と推察する。

 剣岩の案内板には「若い荒神が突き立てた宝剣が形を変えたものと云われます。これより北斗の吉方(真北)に内宮正殿を拝します。 切原区伝承」とある。
 荒神とは、荒々しく人に災いをもたらす「荒ぶる神」の信仰に、仏教、修験道の三宝荒神(さんぼうこうじん)信仰が結びついて生まれた神とされている。一般には火の神・竈(かまど)の神・牛馬の守護神・地主神・山の神などとされ、各地各様の信仰がある。

 県道12号線が開通する以前、五ヶ所湾から船で伊勢参りにきた人々は、苦難な山路を徒歩や馬で峠を越え、伊勢に向かったと思われる。剣岩の「荒神さん」は、山中にひっそりと祀られながら、峠のしるべ岩として崇められていたのだろう。

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2022年6月28日 撮影


案内板。


「神路山越え また来ておくれ 乙女椿の 咲く頃に」
野口雨情の詩碑。


 剣岩のとなりにある推定樹齢400年の「臥龍うばめ」。岩を割ってそびえる姿に自然に宿る生への活力が感じられる。