水田地帯の真ん中に鎮座する加努弥神社。小さな神社だが周辺に何もないので見つけやすい。


社地にあるのは背後の社叢と約3.5m四方の玉垣だけである。


比較的大形の石で石積みされた塚状の神座。磐境(いわさか)と呼ばれ、ここに神さまを招き祀ったとされている。


やや大きめの黒い石が中心に置かれている。これを磐座とする説もある。
 皇大神宮(内宮)末社の加努弥(かぬみ)神社は、伊勢湾に注ぐ五十鈴川(いすずがわ)の河口から約4.8kmさかのぼった左岸に位置し、県道715号線から田んぼの中の細い道を80mほど入った楠の木が聳える小さな社叢の中に鎮座している。
 社地の面積は約11m四方で、これは伊勢神宮を構成する「神宮125社」の中でもっとも社地の狭い神社であるという。

 この地区は伊勢市を流れる宮川と五十鈴川によって形成された沖積地で、神社の周辺には広大な水田地帯が広がっている。現在、五十鈴川は当社地から約350mほど離れたところを流れているが、耕地整理が行われる前は、社地のすぐ近くを流れており、付近には船着場もあったという。

 町名「鹿海(かのみ)町」の語源も、当社名の「かぬみ」に由来すると思われるが、真偽のほどは明らかではない。また、五十鈴川対岸の朝熊町には、次に訪れる鏡宮神社(内宮末社)と朝熊神社(内宮摂社)がある。

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 当社の社地には、浄域を示す鳥居と神域を囲む一重の板玉垣があるだけで、本殿・拝殿などの建造物は一つもない。それでは玉垣の中には何があるのか? 不作法とは思ったが、背伸びをして玉垣の中をのぞいてみた。
 玉垣内の神域には一面に玉砂利が敷かれており、中央に一段高く石積みされた1〜1.5mほどの方形の座所がしつらえられている。座所の中央に、玉砂利とは異なる少し大き目の黒い石が置かれているが、これが当社の核となる磐座(いわくら)だろう。

 古来、神社は「かむやしろ」とも呼ばれ、「屋代(やしろ)」は社殿の建物を指すのではなく、建物(屋)を建てるべき場所(代)を意味していた。「やしろ」は神を祭る神聖な空き地であり、ふだんは注連縄で囲まれた禁足地とされ、 そこで毎年定められた時季に神々を迎える祭祀がおこなわれていた。
 当社のような社殿をもたない神社は、祀りに際して神が降臨される依り代(よりしろ)とされるもので、磐境(いわさか)・神籬(ひもろぎ)とともに神社のもっとも古い形態とされている。

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 この神社の創建年代は不詳であるが、皇大神宮(内宮)の行事・儀式などを記した『皇大神宮儀式帳』(延暦23年(804))に当社の記載があることから、それ以前から存在していたことが分かっている。
 明治4年(1871)に度会県(わたらいけん)管轄の村社に列し、伊勢神宮と度会県から二重に所管されることとなったが、村の氏神であった「八王子社」との混乱があって、明治19年(1886)に内宮末社と村社を分離することで決着したという。

 祭神は、大歳神(おおとしのかみ)の娘・稲依比女命(いなよりひめのみこと)で、五穀豊穣の神とされている。広大な水田地帯にぽつんと鎮座する当社の景観からみても、五穀の中でも、とくに稲霊に関係の深い神と考えてさしつかえないだろう。

 今日、神社といえば、神々を祀った神殿そのものを指すのが一般的だが、私見では、立派な社殿をもつ神社よりも、余計なものが一切ない無社殿の神社に「聖地」のもつ神秘性が濃厚に息づいているように感じられる。人の手によって作られた綺羅びやかな建造物に、神が降臨するとは思えないのである。

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2022年6月27日 撮影


加努弥神社の入口。


神社周辺に広がる水田地帯。1羽のサギが羽を休めていた。