「伊勢へ参らば朝熊(あさま)をかけよ
朝熊かけねば片参り(かたまいり)」
江戸時代に流行った伊勢音頭の一節である。当時の伊勢参りルートは、二見浦(ふたみがうら)で禊(みそぎ)をして身を清め、外宮と内宮を参拝し、最後に朝熊山(あさまやま、標高555m)に登り、朝熊岳金剛証寺(こんごうしょうじ)に参拝するのが一般的だった。
内宮から金剛證寺まで、今なら「伊勢志摩スカイラン」を20分ほど走れば到着するが、江戸時代はなだらかな尾根すじの古道「宇治岳道(うじたけみち)」をおよそ3時間かけて登っていったという。
金剛証寺の開基は古く、6世紀後半、第29代欽明天皇の代に、暁台上人(ぎょうだいしょうにん)が草庵を結び、修行をしたのがはじまりとされている。天長2年(825)、弘法大師(空海)によって根本道場が建立され、本尊に「福威知満(ふくいちまん)虚空蔵菩薩」を祀り真言密教の一大道場として隆盛を極める。平安時代以降衰微し、無住の時期が続くが、応永年間(1394〜1428)に鎌倉建長寺派によって再興され、17世紀初めに臨済宗の南禅寺派となった。
山名の起こりも、昔時、空海がこの山で修業をした時、「朝に熊が、夕に虚空蔵菩薩が現れた」との伝承からついたという。
平安時代後期には、金剛證寺のご本尊である「福威知満虚空蔵菩薩」と天照大神を祀る伊勢信仰が習合して寺勢を伸ばしていった。寺にある虚空蔵菩薩の眷属・雨宝童子(うほうどうじ)木像(国重要文化財)は、天照大神が日向国(ひゅうが、宮崎県)に降り立った16歳の御姿(みすがた)を、弘法大師が刻まれたと伝えられ、天照大神が太陽神であることから、大日如来の化現(けげん)した姿ともいわれている。
こうして金剛證寺は、伊勢神宮の鬼門にあたる丑寅(北東)を守護する寺として伊勢信仰と結びつき、伊勢神宮に参拝した後には、必ず立ち寄る寺となった。
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伊勢志摩地方では、人が死ぬとその霊魂は朝熊山に登り、山中に籠もると信じられていた。葬儀の後、宗派を問わず、遺族が遺髪や着物を持って金剛証寺の奥ノ院を訪れ、背の高い角柱状の卒塔婆(そとば)を立てて追善供養をする「岳参り(たけまいり)」と呼ばれる習わしがあり、今に受け継がれている。
極楽門から奥ノ院までのおよそ300m。参道両面に巨大な角塔婆が壁となって林立している様は、どこか異空間を思わせる不思議な光景だった。
一般的な卒塔婆はお墓の後ろに立てるもので、関東や東北、北海道で5〜6尺(152〜182cm)、東海から西では3尺(91cm)程度のものが主流だが、ここの卒塔婆は、そうした規格をはるかに超えている。もはやお墓変わりの墓標といえるだろう。
なお蛇足を加えれば、角塔婆には高さ2.4〜7.8mまで10種類あって、建立期間は6年間。志納料は3万円〜50万円也であった。
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筑紫申真の『アマテラスの誕生』に「『毎事問』は、朝熊山に、大神宮の乗り給うたとて、磐船(いわふね)といい、注連(しめ)を張った伝説の石がある」と記されており、同著者『日本の神話』にも「朝熊山のいただきには、アマテラス大神の降臨する霊巌がある、と記録にのこされている」との記述がある。
朝熊山頂展望台の広場にみられる岩の露頭が、天照大神が降臨した古代の磐座と考えられているが、この岩場には注連縄も由緒を記した案内板もなく、観光客は土足で岩の上を歩いている。はたしてこれでいいのかと、心配になってきた。
山頂展望台からの眺めは素晴らしい。条件がよければ約200km先にある富士山を見ることができ、夏至の日の出は伊勢湾に浮かぶ神島(かみしま)と富士山が一直線に並ぶという。また、冬至の頃には答志島(とうしじま)から朝日が昇る。答志島の名は「冬至の島」から転訛したものという。
朝熊山頂の景観は、太陽神・天照大神が降臨するにふさわしい絶好の舞台といえるだろう。この岩磐が、古代の磐座であったという確証はないが、こうした風景を見る限りでは確かに信憑性は高いと感じられた。
筑紫氏よると、朝熊山は、おそらく奈良時代までは朝熊神社の神体山であったが、平安時代のはじめに山岳仏教の霊山として金剛證寺の信仰にきりかえられていったと、考察されている。
伊勢地方に、皇祖神を祀る特別な神宮がつくられたことで、縄文時代にまで遡る神体山・磐座信仰は、天照大神から「現人神」とされる天皇に至る流れのなかで変容し、過去の遺物とみなされ捨て置かれたのだろうか。
一般的な神社にはあって、伊勢神宮にないものとして、注連縄、狛犬、鈴(鈴緒)、おみくじ、賽銭箱(賽銭箱には白布が敷かれている)などが挙げられるが、磐座信仰もこれに連なるものではないか、と密かに考えている。
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2022年6月27日 撮影
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九鬼嘉隆公の五輪塔。
金剛證寺は九鬼水軍ゆかりの寺であり、
嘉隆の三男・有慶は当山に出家し
金剛證寺第12世となった。
伊勢湾に浮かぶ答志島は、
中世の九鬼水軍の本拠地であり、
九鬼嘉隆終焉の地とされている。
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