ユネスコ「山陰海岸ジオパーク」の指定を受けた後ヶ浜海岸の「立岩」。京都府指定文化財(天然記念物及び名勝)


今から1500万年前に地下から噴出したマグマが冷えて固まってできた岩床とされている。


玄武岩の柱状節理でできている一枚岩の自然岩。


高さ20m、周囲約1km。陸繋砂州(トンボロ)で陸地とつながっている。


岩の中程にある石祠。祠の中に子を抱きかかえている石の地蔵が安置されてている。


丹後町筆石の「屏風岩」。海面からそそり立つ高さ13mの奇岩。
 若狭の旅では、内外海(うちとみ)半島にある「蘇洞門(そとも)めぐり」を計画していたが、好天にもかかわらず、波が高くて遊覧船は欠航となった。日本海の荒波に打ち砕かれた方状節理の断崖・洞窟の景勝を楽しみにしていたが、残念ながら見損ねてしまう。
 やむなく若狭を離れ、天の橋立北側の付け根にある丹後国一之宮の元伊勢籠(この)神社とその奥宮の真名井(まない)神社を訪れる。真名井神社には古代祭祀の磐座があるが、境内は全域撮影禁止となっていた。蘇洞門につづいて撮影ポイントを逃し、残念至極というほかはない。

 気持ちを改めて、京丹後市を代表する奇岩「立岩(たていわ)」に向かう。籠神社から立岩までは、丹後半島を北上することおよそ28km。この移動の間に、徐々に雲行きが怪しくなり、雨が降ったり止んだりの天気になってきた。丹後地方には「うらにし」と呼ばれる不安定な気候があり、丹後に行くのなら「弁当忘れても傘忘れるな」ということわざがあるという。

 立岩は、丹後町の竹野川河口の後ヶ浜(のちがはま)海岸の海中にある。高さ20m、周囲約1kmにも及ぶ巨大な一枚岩の玄武岩で、日本海をバックにそそり立つ柱状節理の奇岩は、なかなかの見ものである。

 立岩とともに京丹後市のシンボルとして知られる「屏風岩(びょうぶいわ)」は、立岩から東に約2.5kmはなれた丹後町筆石(ふでし)の海岸にある。国道178号線沿いに、高さ13mの屏風岩を見下ろす展望所があり、そこから海岸に下る道も見られるが、雨と風が下りていくのをためらわせた。上記の写真は展望所から撮影したものである。

 立岩と屏風岩は、今から1500万年前に地下から噴出したマグマが冷えて固まった火山の痕跡で、立岩はキノコの傘のようにマグマが地層に入り込み岩床となって固まったもので、屏風岩は大地の縦の割れ目に屏風状にマグマが入り込み岩脈となって固まったものである。固結した安山岩が、後に周りの地層が侵食により削り取られ、堅い安山岩の岩脈が取り残されて現在の姿になったと考えられている。

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 立岩のある「間人(たいざ)」は、超が付くほどの難読地名として知られている。地名由来の伝承として、
 6世紀末、大和政権内では蘇我氏と物部氏が仏教の導入を巡って対立、政権をめぐる争いが起こっていた。第31代・用明(ようめい)天皇の后・穴穂部間人(あなほべのはしうど)皇后は争いを避けて、子息の厩戸皇子(うまやどのみこ、後の聖徳太子)とともに丹後の当地に身を寄せた。
 村の人々は皇后親子を手厚くもてなし、やがて争乱が収まり大和へ帰るとき、皇后は村人のやさしさに報いるため、自らの名前「間人」をこの地に贈った。しかし、村人は「はしうど」と呼び捨てにすることを畏れ多く思い、皇后がこの地を退座(たいざ)したことに因み、読み方を「たいざ」にしたという。
 しかしながら『古事記』『日本書紀』に、間人皇女が丹後国に避難したという記述はない。後世に附会された伝承のように思われるが、海岸には間人皇后と厩戸皇子の母子像が建てられており、伝承の由縁の偲ばせている。

 立岩にも鬼退治の伝承が残されている。
 第33代・推古天皇のころ、丹後の国三上ヶ嶽(みうえがだけ、現在の大江山)では、英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちぐま)の3匹の鬼が首領となり人々を苦しめていた。こうした事態に対し、朝廷は用明天皇の第3皇子・麻呂子(まろこ)親王(聖徳太子の異母弟)を大将軍に任命し、鬼の討伐に向かわせた。
 その道中、戦勝祈願のため大社・籠神社に立ち寄ると、どこからともなく一人の老人が現れて「この国は道筋が定かではない。この犬を道案内に用いよ」と白い犬を差し出した。やがて鬼との合戦がはじまった。劣勢になり、山の奥深くにかくれた鬼を白い犬が見つけ出し、英胡と軽足は討ち取られ、土熊は現在の竹野の地で生け捕られ、立岩に封じ込められたと伝えられている。今でも風が強く、波の高い夜などは、鬼の鳴き声が聞こえるという。

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 京丹後市内で確認されている墳墓・古墳の数は約4500基あるという。古墳の分布図をみると、圧倒的に多いのは丹後の海岸地帯で、古いものでは、縄文から弥生時代に至る久美浜町の函石浜(はこいしはま)遺跡や網野町の浜詰(はまづめ)遺跡、弥生時代後期末の赤坂今井墳墓(峰山町)などがある。
 古墳時代に入ると、4世紀中葉〜後半の蛭子山(えびすやま)古墳(全長145m、与謝野町)、4世紀後半の網野銚子山古墳(全長198m、網野町)、4世紀末〜5世紀初頭の神明山(しんめいやま)古墳(全長190m、丹後町)の「日本海三大古墳」と称される前方後円墳が築造されている。

 これら巨大古墳の存在から、大和政権が確立される以前の弥生時代から古墳時代にかけて、筑紫や出雲、吉備などと並ぶ独立した地域国家が存在していたと考えられるようになってきた。昭和58年(1983)に歴史学者の門脇禎二によって提唱された古代「丹後王国論」である。

 門脇氏は、古代「タニワの国」と呼ばれた竹野川流域の峰山盆地を中心とした地域に、天然の良港である潟湖(せきこ)を利用して、中国大陸や朝鮮半島と交易を行う「丹後王国」が存在したと考えた。
 古代において、日本海側は歴史の表舞台であった。丹後は日本海側に栄えた北九州や出雲の王権とヤマト王権を結ぶ海上交通の要衝であり、交易を通じて、先端の技術をもったきわめて進んだ王国であったと考察している。

 立岩、屏風岩は、海上から港の位置を把握する古代のランドマーク的存在であり、その特異な景観は、海の彼方からやってくる海神の依り代として信仰の対象となっていたものと思われる。
 そうした信仰の証しとなるものだろうか。立岩の中程に小さな石の祠が見える。望遠レンズで覗いてみると、祠の中には子を抱きかかえている石の地蔵が安置されていた。間人皇后と聖徳太子の母子が当地に滞在したという「間人」の地名伝承に因むものだろう。航海の無事を祈願する神が、子育地蔵に変容したものと思われる。

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2020年10月24日 撮影


日本海を見つめてたたずむ
間人皇后と厩戸皇子の母子像のモニュメント。

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