「東京の奥座敷」檜原村の山あいに鎮座する貴布祢伊龍神社。


拝殿は切妻造、本殿は神明造で昭和55年11月に再建された。


社殿の横に鎮座する苔むした磐座。


奥の建物は本殿。
 都心から西に向かって約60km、西多摩郡に属する檜原村(ひのはらむら)は、東京都の本州内における唯一の村であり、「東京の奥座敷」ともよばれる自然ゆたかな山あいの村である。

 役場のある村の中心部から、多摩川水系の南秋川に沿って走る檜原街道(都道33号)に入る。川遊びスポットとして知られる「秋川渓谷」を過ぎて、約3.5kmほど走ったところで南秋川に架かる橋を渡り、ここの丁字路を右折する。そこからさらに、沢川に沿って泉沢集落を1kmほど上っていくと、ようやく貴布祢伊龍(きふねいりゅう)神社の石鳥居が見えてくる。

 スギ、ケヤキ、ムクエノキなどの木立に覆われた神社周辺の標高は約350m。ここまで訪れる人は少ないのだろう。辺りに人の気配は見られない。石段脇の沢にかかる小さな滝が、森閑とした境内に心地よい水音を響かせている。

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 当社の由緒については、石段脇に置かれた「拝殿改築記念碑」に、以下のように記されている。
 「旧社殿は明治初年の建築で 大正初期に一部改築されてはいるが腐朽甚だしく 氏子並に関係各位の奉賛を得てここに改築されました 
 創立は不詳なるも寛文庚戌(一六七〇)年に社殿修造せしとあり 祭神は国常尊と不動明王であるが 明治元年社寺分離令により明治三年に貴布祢神社となり 又明治四十四年に祭神天手力雄尊伊龍神社を合祀し 貴布祢伊龍神社と号するに至っている」

 江戸時代後記に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』には、貴布祢神社は「不動堂」の名前で記されており、前に木の鳥居が立っていたとある。不動明王を祀る仏堂に鳥居があるのは、神仏習合の形態を残した社寺であったためだろう。貴布祢神社の名は、明治時代初頭に発令された神仏分離令によって、明治3年(1870)に改名されたものである。

 当社の祭神は、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、猿田彦神(さるたひこのかみ)の3柱とされている。
 明治42年(1909)に、猿田彦神を祀る泉沢の日枝神社、明治44年(1911)に、天手力男命、一説には軻遇突智(かぐつち)を祀る「払沢(ほっさわ)の滝」入り口(本宿集落)にあった伊龍神社が合祀されたことで、現在の貴布祢伊龍神社の社名になったという。

 「貴布祢(きふね)」の名前から、京都・鞍馬山の麓にある「貴船(きふね)神社」を想起するが、当社に貴船神社の祭神、水を司る・高龗神(たかおかみのかみ)は祀られていない。貴船神社は「京都の奥座敷」とも呼ばれ、奥深い山ふところにある「奥座敷」の風情は、どことなく似通っているように思えるが、はたして貴船神社から勧請を受けたものであるのかは、よく分からない。

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 社殿の横に、人の背丈ほどもある緑に苔むした巨石が横たわっている。紙垂(しで)を垂らした注連縄が巻かれていることから、信仰の対象として鎮座しているものだろう。この巨石に関する伝承は残されていないようだが、おそらく社殿が建てられる以前は、神さまが降臨する磐座として神聖視されていたと思われる。

 現在、当社のご神体は、高さ1尺(約30cm)くらいの鋳物らしい不動明王立像と、1尺4寸(約43cm)くらいの十一面観音立像で、十一面観音は合祀の折に伊龍神社から持ち込まれたものとされている。

 古代には、この磐座が当社のご神体であったが、神仏混淆の思想から、ご神体は磐座から仏像に取って代わられ、自然信仰は衰退していったのだろう。時代とともに変遷していったご神体の名ごりを、この巨石が物語っているようにも思える。

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2021年3月14日 撮影


社殿裏に置かれた祠。


社殿の横に小さな滝があり、ひんやりとした空気が漂っている。