秩父市街地の中心部に鎮座する秩父神社。
祭神に八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)、
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、秩父宮雍仁(やすひと)親王の4柱が祀られている。


秩父神社御鎮座2100年奉祝事業として、本殿の塗りなおし作業が行われていた。
現在の社殿は徳川家康による造営で、本殿・幣殿・拝殿が1つにまとめられた権現造の形式で、
左甚五郎の作も含む多くの彫刻で飾られている。


秩父神社の境内、柞(ははそ)稲荷神社の前に鎮座する「神降石」。


赤みを帯びた「神降石」。頂部は座布団を敷いたような、座りやすい形状になっている。
 秩父盆地の南東にそびえる標高1304mの独立峰、「武甲山(ぶこうさん)」の勇姿を眺めつつ、秩父市街地の中心部に鎮座する延喜式内の古社「秩父神社」に着いた。

 こんもりと茂った秩父神社の鎮守の森は、古くから「柞(ははそ)の森」と呼ばれている。「柞」とは、コナラ・クヌギ・ミズナラなどのブナ科の落葉樹のことを言うが、現在の森は、ヒノキ・シラカシ・ケヤキ、スギなどを中心とした植栽に変わっている。また、現在の境内地は約6,000坪だが、江戸時代、寛政2年(1790)の古地図には「妙見社中境内地一萬一千四百八十四(11,484)坪」と記されている。時を経て「柞の森」の様相も変わっていったことがうかがえる。

 この森は、もともと秩父神社の神体山(神奈備山)である武甲山の遥拝所であったと考えられている。しかしながら現在の社殿は、武甲山に向き合う形になって建てられている。これでは参拝者は武甲山に背を向けて拝むことになるので、遥拝所の体をなしていない。社殿の向きは、いつ頃、なぜ南北に逆転したのだろうか。疑問に思うが、これについての詳細な記録は残されていない。

 社殿後方の柞の森を歩いてみると、神酒(みき)を入れる瓶子(へいし)が木の根元に置かれており、所々に聖域であることを示す石積みのようなものが見られた。現在もささやかな祭祀が行われているのだろうか。市街地に残された人気のない鎮守の森のなかで。古代に連なる信仰の気配が感じられた。

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 飛鳥時代の慶雲5年(708)、武蔵国秩父郡の黒谷から自然銅が発見され、朝廷に献上された。これを喜んだ朝廷は、年号を「和銅」と改元し、日本最初の貨幣「和同開珎」が発行されたことはよく知られている。和銅の発見以来、この地は朝廷と深い関係となり、この頃に「知知夫(ちちぶ)」の郡名が、現在の「秩父」に改名されたと言われている。

 当社の創建年代は不明であるが、社伝によると、第10代・崇神(すじん)天皇(紀元前97〜30年)の御代に創建されたとされ、秩父地方を開拓した知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が、祖神の八意思兼命(やごころおもいかね)を祀ったことに始まるとされている。

 当社の初見となる記録は、貞観4年(862)の『日本三代実録』の記事で、このとき正五位上の神階を叙せられている。天慶年間(938〜947)、秩父平氏(ちちぶへいし)の祖となる平良文(たいらのよしふみ)が、平将門(たいらのまさかど)と戦ったときに、上野国花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を撃ち破ることができた。以来、良文は妙見菩薩を厚く信仰し、花園村から妙見社を勧請し、以後、秩父に神仏習合の妙見信仰がもたらされた。中世以降は、関東武士団の源流、秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し隆盛を極め、社名も「秩父大宮妙見宮」に変わり、武甲山も「妙見山」と呼ばれるようになる。

 江戸時代、徳川家康の参詣が機縁となって、天正20年(1592)に権現造りの本殿、幣殿、拝殿が建造され、左甚五郎作と伝えられる「子宝・子育ての虎」や「つなぎの龍」など、さまざまな彫刻が施された。
 明治時代になり神仏分離令によって、社名は「秩父神社」に戻され、武甲山も日本武尊が東国遠征の際に、自らの甲(カブト)を山頂の石室に奉納したという伝承にもとづく「武甲山」の山名に戻された。

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 当社境内の西側、柞稲荷神社の前に「神降石(じんこうせき)」と呼ばれる赤みを帯びた円筒形の石が置かれている。石の高さは約1.4m、周囲約4.5m。石の種類は、微細な酸化鉄鉱物(赤鉄鉱など)を含んでいる「チャート」で、放散虫などの石英質の殻をもつ生物の殻がたまってできた堆積岩の一種である。
 湿度が高いときには水滴をつけて紅色を呈することから、地元では「生き石」とも呼ばれ、赤子の夜泣きにご利益があるとされている。

 この石がいつから存在していたのかは不明だが、伝承によれば、当石を運搬する際、あまりに巨大で重いため難儀をしたが、婦人の髪で綯った綱で牽引したところ、ようやく運び入れることができたという。
 この伝承が確かなものなら「神降石」という名称はそぐわないものとなる。「神降石」とは、神が降臨される石の意で、聖地と一体化した自然石のことをいう。古神道の「磐座」と同義とされ、人為的に運ばれ、設置されるものではない。

 この石について、秩父神社の「境内案内図」に「神降石」の名称が記されているだけで、石に対する案内・縁起等はどこにもなく、聖なる石を示す注連縄も巻かれていない。石の大きさに比して、いささか祀られ方がゆるいように感じられる。
 ここからは私見だが、運ばれてきたという神降石の伝承と、滑らかな円筒形という石の形状から見て、この石は仏教系の説法石、もしくは座禅石ではないかと思えてきた。
 神降石は、社殿前広場の南西角に置かれている。広場に民衆を集めて、僧侶が石の上に座り、説法をするにはもっとも良い位置にある。石の高さも、背後に緩やかな傾斜の部分があり、ここから簡単に昇れそうだ。石の頂部も平たくて、座禅を組んで座るのに申し分のない形状をしている。妙見菩薩を合祀した神仏習合の時代なら、神社に説法石があっても不思議ではないだろう。



秩父神社の社殿後方に広がる「柞の森」。
森のなかに神酒を入れる瓶子や石積み遺構が散見される。





平成27年11月、秩父神社御鎮座2100年記念事業として整備された秩父神社ノ神社御旅所。
 秩父神社から南方に約1km離れた秩父神社の「御旅所(おたびしょ)」に、「亀の子石」と呼ばれるいかめしい面貌をした亀の石像が置かれている。

 毎年12月3日に行われる「秩父夜祭」では、祭の御旅所がもっとも重要な祭祀場となる。当日、秩父神社を出発した6基の笠鉾・屋台は、町内を曳き廻され「お花畑駅」近くの御旅所に到着する。そこで、鎮座する「亀の子石」の背中に高さ180cmの大幣束(へいそく)が立てられるのだが、これは秩父神社の妙見菩薩(女神)と武甲山に住む龍神(男神)が、年に一度、亀の子石で出逢い、逢瀬を交わすことを意味していると言われている。

 亀の子石とは、いわゆる玄武神(亀と蛇の合体した想像上の動物で、北方の守り神とされる)であり、妙見菩薩の乗り物とされている。秩父神社の社殿・亀の子石・武甲山が南北に一直線上に並び、その北の延長線上に北極星が位置する妙見信仰と神体山信仰が重層した配置となっている。亀の子石の「子(こ)」は、すなわち「子(ね)」、すなわち妙見信仰の象徴である北辰を意味するものだろう。

 上段で、現在の秩父神社の社殿は、武甲山に背を向けて拝む形となっており、遥拝所の体をなしていない。と記したが、社殿の向きが南北に逆転したのは、中世に妙見菩薩が習合され、武甲山を遥拝するための場所が、この「御旅所」に取って代わられたためと考える。

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2023年9月3日 撮影


秩父神社前の道路から眺めた武甲山。
武甲山で採掘された石灰石は、セメントの主原料として
秩父地方の代表的な地場産業に発展した。


「御旅所」内の覆屋に鎮座する「亀の子石」。
秩父夜祭では「亀の子石」の覆屋が取り払われ、背中に高さ180cmの幣束が立てられる。