右が即道神社、左が薬師堂。元禄年間、即道は薬師堂に住み、村人をおどろかせる奇人であったといわれれている。


即道神社の内部。


即道が自分の爪で彫ったと伝えられる「爪彫石」。読解困難な文字や図形が渦巻き状に刻まれている。


径25cmほどの爪彫石。


薬師堂には、即道作の「薬師如来坐像」が安置されている。
 秩父市街地を経て三峰方面へ向かう国道140号線、樹齢約600年のしだれ桜で知られる「清雲寺」(荒川上田野(かみたの)690)入口の交差点、コンビニ・ローソン駐車場の向かいにある民家のかたわらに、小さなお堂が2つ並んでいる。向かって右が即道(そくどう)神社で、左が薬師堂、その後方に「石経塚碑石」が祀られている。

 この日、お堂の観音扉はともに施錠されていた。格子戸のすき間から堂内をのぞくと、即道神社には「爪彫石(つめぼりいし)」(市指定有形民俗文化財)と呼ばれる大小2つの石と小祠、龍の置物が、隣の薬師堂には像高110cm、座幅90cmの「薬師如来坐像」(市指定有形文化財)が安置されている。

 爪彫石と薬師如来像、どちらも江戸時代中期の伝説上の僧侶・即道の作とされている。一説によれば、即道は荒川上田野村の尾張守町田定照の末孫として生まれ、出家前は「六兵衛定之」という名前であった。元禄期(1688〜1704)、秩父市荒川・贄川(にえがわ)常明寺(じょうみょうじ)の3世住職となり、名前を「即道」に改め、薬師堂に住み着いたという。

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 即道神社の爪彫石は、表面に油を塗ったような光沢のある黒褐色の石で、俗に油石とも呼ばれている。石の大きさは長径90cm、優に300kg以上はあると思われる重い石だが、これを即道は富士山登拝の折、袂(たもと)へ入れて、さも軽そうに持ち帰ったという。この伝承から、爪彫石は別名「たもと石」ともいわれている。

 荒唐無稽なエピソードだが、このほかにも即道の超人伝説はいくつもあり、江戸幕府により編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』には、1日20〜30里(78〜118km)も移動することができたとある。
 また、1反(12m)の布を腰に着けて走ったときに、一度も布が地面につかなかった。お湯を火にかけ、沸騰する前に武甲山(標高1304m)の鐘撞き堂の鐘を鳴らして帰ってきた。薬師堂周辺で祝儀があり、100km以上離れた江戸の魚市場に行き、魚を買って夕食までに戻ってきた。12段ある梯子に薪を積んで走り回った。秩父34ヶ所観音霊場の28番札所・橋立寺の鍾乳洞を掘った(発見した)……… 等々。

 爪彫石には、即道が自分の爪で彫ったと伝えられる文字や図形、和歌、年号などが、表面中央の方位形状の図像(東西南北の文字がある)を起点に、左まわりで渦巻き状に刻まれている。
 これらの文字や図形が、なにを表わしているのかは、未だに解読されておらず不明だが、神秘的な渦巻き文様が超現実的な図像の印象を与え、どことなく魔除けの護符めいたものを想起させる。

 即道神社の隣、薬師堂の須弥壇(しゅみだん)に据えられた薬師如来坐像(像高110cm、座幅90cm)は、結跏趺坐(けっかふざ)し、右手は施無畏印(せむいいん)、左手は膝(ひざ)の上におかれているが、薬師如来の特徴である薬壺(やっこ)は持っていない。頭部と胴部は別に作られており、体内に俗に「腹籠(はらごも)りの像」ともいう胎内仏が納められていることから、安産・子育ての薬師さまとして信仰を集めている。
 印象深いのは、顔と手肌が黒く塗られていることで、半眼に開かれた目の白さ、厚い唇のピンクが際立って見えた。

 もう一つ、即道作の薬師如来立像(市指定有形文化財)が秩父市上田野坂口区の薬師堂(荒川上田野2112番地3)に安置されている。像高約2m、木造寄木造(よせぎづくり)で両肩手部は接着工法である。伝説によれば、元禄期、この堂にあった薬師如来像を即道が紛失し、村人に騒がれて1カ月で薬師如来坐像を彫り上げたが、村のものが前にあったものは立像であったと責められたため、改めてこの立像を一夜で彫り上げたという。

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 伝奇小説や漫画に登場するような、なんとも知れぬ奇人・怪人・超人ぶりだが、即道の超人伝説に、俗界を離れて山中に籠もり、肉体的・精神的な苦行をおこなう、役行者に代表される修験の世界が関わっていることはいうまでもないだろう。

 鎌倉時代末期には、秩父地方を代表する三峰山(妙法ヶ岳)、武甲山、両神山の三山にも修験の道場が設けられ、独自の信仰集団が形成されていた。
 江戸時代になると、幕府は修験道の活動を統制下に置きその遊行を禁止したため、彼らは町や村に定住して「里山伏」となった。即道もこうした宗教者の一人だったと考えられる。

 即道の没年は不詳だが、一説によれば、享保15(1730)年9月7日に、秩父市贄川の常明寺で鐘を打ちつつ、「我正に入定す」と言って、穴の中に入っていった。享年48歳であったという。旧荒川村の村民には、頼もしい「ただの人間」として愛されていたようだ。

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2023年9月3日 撮影


即道神社の背後にある「石経塚碑石」。
碑石には「元禄十七年(1704)申八月」と
即道の俗名「町田定之」の銘があり、
「天下泰平 国土安穏 一切衆生 息災延命」などの
祈願文が記されている。
また、この塚には無数の小さな河原石に、
経文が1個に1字ずつ墨書されたものが
埋められているという。

案内板。