マテバシイに囲まれた安房口神社の参道。


参道途中に立つ二ノ鳥居。境内は森閑として、人の気配はない。


神域中央の基壇上にある鉄の檻のなかに、ご神体の霊石が置かれている。


御神体の霊石。


霊石の大きさは、長さ198cm、幅86cm、高さ64cm。岩質は凝灰質の砂岩で「房州石」の類と思われる。


正面から見た霊石。中央に直径40mほどのくぼみがあり、これが安房の方角を向いている。
 横須賀市東部の丘陵地に位置する吉井地区、信号機のある四つ角の一角に安房口(あわぐち)神社の一ノ鳥居が見える。神社は標高75mの明神山の山頂にあって、昼なお鬱然たる鎮守の森の様相を呈している。
 鳥居をくぐり、ほんの数メートル参道を進んだだけで、心なしか周囲の空気がひんやりとしている。マテバシイの枝葉に覆われた参道は、あたかも緑のトンネルのようになっていて、森閑とした境内はどこか祭壇めいた厳かな気配を漂わせていた。
 
 社伝によれば、この地は房総への重要な交通路で、古代東海道の要衝であったと伝えられている。古代東海道は、足柄峠を越え国府津(こうづ)のあたりから三浦半島を横切り、半島東端の横須賀市走水(はしりみず)より船で上総国(かずさのくに、 現在の千葉県中部にあたる)に渡るルートと推定されている。

 記紀神話には、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折にこのルートを通り、走水から船で上総に渡るとき、荒れた海を鎮めるために、同行した妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が、自らを犠牲にして海に身を投げたという悲しい伝承が残されている。

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 当社の創建については不詳であるが、案内板(一番下)には「磐座(いわくら)信仰という古い型を保っていて三浦半島では最古の社ではないかといわれています」と記されている。三浦半島最古の社という点には疑問をもつが、当社が原初的な信仰形態を今日に伝える特殊な神社であることは、境内に入って見ればすぐにわかるだろう。

 総じて通常の神社には、拝殿の奥に本殿があり、その本殿のなかに、礼拝の対象となるご神体が祀られている。ところが当社の場合、神社という名前で呼ばれていても、浄域への入り口を示す鳥居があるのみで、拝殿も本殿もなく、ご神体とされる「霊石」が一つ置かれているだけである。
 霊石は、神域の中心につくられた玉垣のなかに鎮座しているが、その周囲は厳重な鉄の檻によって囲まれている。この檻は近年につくられたもので、ちょっとやり過ぎのように思えるが、これも心無い者によるいたずらから霊石を守るためだろう。まことに不粋なことである。

 霊石の大きさは、長さ198cm、幅86cm、高さ64cmの直方体で、正面に直径40mほどのくぼみがあり、これが安房の方角を向いているという。岩質は凝灰質の砂岩で、千葉県房総地方から産する「房州石(ぼうしゅういし)」の類と思われる。

 この霊石をもって、当社が磐座信仰に基づく古式の神社と考えられているようだが、本来、磐座とは神を祀るための不動の「盤石(ばんじゃく)」で、堅固でびくともしない岩のことをいう。しかしながら当社の霊石は、盤石とは言えない移動可能な石であり、どこかから運び込まれた石と見なされている。
 案内板の由緒によると、この霊石は「その昔、安房国洲崎明神に竜宮から献上された大きな石が二つ置かれていて、ある時、その一つが安房大神太玉命(ふとだまのみこと)の御霊代(みたましろ)として東国鎮護のためにこの場所に飛んできた……」と記されている。

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 上記の「安房国洲崎明神」とは、昨年(2019年)当サイトに掲載した千葉県館山市の「洲崎神社の御神石」ことをさす。
 洲崎神社の由緒には、御神石は(1)飛鳥時代の呪術者である役行者(えんのぎょうじゃ)が飛来し、海上安全のために、一つを洲崎の地に、一つを現在の横須賀市吉井の地に置いていったというもの。(2)竜宮より一対の大きな石が洲崎明神に献上されたが、ある時、その一つが天太玉命(忌部氏の祖神で安房神社の祭神)の御霊代として東国鎮護のために吉井の地に飛んでいったという2つの伝承が記されている。

 当社が相模国(さがみのくに)三浦半島にあって、「安房口」と呼ばれていることは、安房口神社が古東海道において安房国への入口であったことを示すものだろう。当地を本拠地とした相模の武将・三浦一族も、当社を航海の神として信仰していたといわれている。安房口神社の霊石と洲崎神社の御神石は、東京湾の入り口に配された狛犬のように、「阿吽(あうん)」で対をなす結界石と考えられている。

 しかし一方で、当社には明治末期まで石棒状の陽石が祀られており、安房口神社の霊石は、先端に丸いくぼみがあることからは陰石とみなされ、土俗的な性信仰に基づく陰陽石であったと見る説もある。
 明治期に当社の陽石が失われたというのは、性神を淫祠邪教(いんしじゃきょう)とみなす明治政府の圧力によって破壊消滅されたとも考えられるが、詳細については不明である。陰陽石は村境や峠に祀られることが多く、邪気や外敵の侵入を防ぐものとされるが、古くから縁結び、子宝及び安産祈願の神としても崇められている。

 鎌倉幕府初代将軍 源頼朝の妻・北条政子も懐妊のおり、当社に安産祈願の参拝したという伝承も残されている。こうした安産祈願の信仰は現在も続いているのだろう。ご神体石の前に「安産祈願霊石」と書かれた黒玉石がプラケースに納められて置かれている。産婦が霊石(玉石)1個を持ち帰り、神棚に祀り、無事に出産されたあと、玉石を2個にして神殿に戻し、安産のお礼とするものである。

 はたしてこの「霊石」は、東京湾を見守る結界石なのか、安産の神とされる陰陽石なのか? 
 考えられるのは、古層に縄文時代に由来する性的信仰があり、これが神籬(ひもろぎ)・磐座信仰と結びつき、後世に三浦半島と安房の国をつなぐ水上交通の守護神となって、安房国一之宮安房神社の祭神・天太玉命を祀る神社となったと考察される。
 真意のほどは確かめられないが、こうした長い時間をともなう神格の変遷が、当社の霊石にまつわる謎めいた伝承の正体ではないだろうか。

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2019年4月20日 撮影

安房口神社と須崎神社の位置図。



ご神体石の前に置かれている「安産祈願霊石」。
産婦が玉石を1つ持ち帰り安産のお守りとし、
めでたく出産すると2個にして神殿に戻し、
安産のお礼とする。



案内板



案内板